2.現実はいつも
1.では、幸運を
午後三時を過ぎた『カフェ・リアーナ』は、多くの人で賑わっていた。
コーヒーと炙ったチキンの香りが人々の会話の間を流れていく。その賑やかさと相反する思いで晶は窓際の席に着いていた。
「随分ぼんやりしているようだな」
正面からはミナの声が届く。
最寄りの駅近くで車を降ろしてもらった後、彼女に連絡を取り、ここで会う約束をした。無事雇われたと伝えた後は今後の指示を仰いでいたが、いつしか別の思いが頭を幾度も過ぎっていた。
「緊張したのは分かる。だが明日からはあまり油断しないよう気をつけてくれ」
「それは……分かってます……」
「分かってるならこれ以上は言うまい。ところで晶、あの男の屋敷で長身の黒髪の男とは会ったか?」
そう問うミナの表情はやや険しさを増した。蟠る思いを無理に追い払うと、晶は肯定の意を返した。
「あの男には注意が必要だ。彼は十八の時から現在まで十六年もの間、あの主に仕え続けている。何かが起きれば彼はどんな手段を用いてでも、主の立場と命を守るだろう。多分その本人よりもな」
相手の言葉が誰を指しているかはすぐに分かった。
長身の黒髪の男、リジー・ヘイズ。二年前も彼はあの屋敷で主の傍にいた。
当時感じた印象は今も変わっていない。彼は自分以外誰も信じていない、〝
「しかし一番気をつけなければならないのが誰かは分かっているな」
続く言葉に晶は無言で頷いた。
決して忘れた訳ではなかったが、今日改めて思い知った。
『片方あれば充分だろう』
頬に感じた冷たい感触。
届いたあの言葉通りになっていても、おかしくはなかった。ならなかったのは単なる気まぐれにすぎなかったのかもしれない。それを思えば再度背筋が冷えた。
「あの男は今大きな取引を控えている。末端価格にして最大規模となるものだ。彼は用心深い。だがどんな用心深い人間であろうと今回ような取引を前に、相手と一度も顔を合わせないなどあり得ない。取引の日程を事前に知ることができれば現場を押さえられる。それを糸口に強固な証拠を手に入れられる。行動を共にすれば、その情報に迫れる機会は必ずある」
相手の口調からは今件に対する意思の強さが伝わった。でも今日の出来事を思い返せば、不安が残る。けれど危険なことであるのは元から分かっていたはずだ。それにもう迷わないと決めた。しかしそう思いながらも、先程から別の思いが頭を駆け巡るのを止められなかった。
あの場所で再会を果たしたライ。
その出来事があまりにも突然すぎて、晶は未だ心の整理をつけられなかった。
彼に話しかける機会は何度かあった。でもその度に無言の圧のようなものを感じて、結局何も言い出せなかった。だがそのように感じたのも、こちらのただの思い込みかもしれなかった。
あれからもう六年も経っている。ささやかすぎる思い出を忘れてしまうには充分な時が過ぎていた。心に留まり続けた思い出は相手にとっては、取るに足らない出来事だったのかもしれない。そう思えば心にぽっかり穴が空いたようにも感じるが、それが真実なら仕方がないとしか言いようがない。未練がましい思い出は早く忘れ去って、やるべきことに目を向けるのが正しかった。
「どうした、何か気になることでもあるのか?」
顔を上げるとミナがこちらを見ている。再び上の空になっていたことに気づいて晶は相手を見返した。
彼女にはライについてまだ何も話していない。彼に対してどんな思いを持っていようと、それとこれは別の話だった。今件の指揮を執るミナに何も言わない訳にはいかないはずだった。
「コルトヴァさん……実は私、今日屋敷で知人と会ったんです……その人は今あの家で運転手として働いているようです。彼とは知り合い……と言うより顔見知りと言った方がいい間柄でしたが、それももう六年も前のことなので向こうは覚えてないかもしれません。でも一応あなたに伝えておきます……」
一気に伝えて相手を見ると、その顔に一瞬困惑に似たものが浮かんだ気がした。しかしそれはすぐに消え、後はいつもと変わらないものしか見えなかった。
「そうか……だがその運転手については既に調べがついている。彼は新入りだ。護衛役も兼ねて数ヶ月前に雇われたようだが、あの男の部下としては日が浅いこともあってあまり深い部分までは関わっていないようだ」
「そう……ですか……」
「彼にはそれほど警戒しなくていいが、念には念を入れよう。万が一向こうが君を覚えていて、接触を図ってきたとしても相手にするな。今回のような状況下では無駄な関係性は不必要な危惧を生む。それがどんな小さなものでもな」
晶はその言葉に再び頷くと、窓の外に目を向けた。
全ては彼女の言う通りでしかない。
思いがけない再会に心乱されたが、目的は果たさなければならなかった。それにもしライが忘れてしまっているというなら、その方が自分には好都合でもある。
しかし……ミナが言った〝
深い部分まで関わっていないとしても立場上、敵対関係にあることに変わりはない。頭では分かっていても、今後もその事実に心を揺らされるかもしれない。もっと強固な意思を自らの中に蓄えなければならなかった。
「そうだ晶、言い忘れていたことがある。君の勤め先には私から口添えしておこう。職場は十一番街の『ヴィラン』……だったな? 客の薬物検査をすれば逮捕者が続出するような俗悪店だが、戻れる場所は必要だろう」
「えっ?」
そう告げる表情はいつもと変わらないものだったが、その言葉は晶にとって意外なものだった。
「戻れるって……今回の件が終われば、私は戻っていいんですか?」
「ああ。私はそのつもりだったが、もしかして君は戻りたくないのか」
「い、いいえ……戻りたいです……」
消え入るような声を晶は戻した。自分なりの今件に対する思いはあるが、破滅に向かう気はなくとも全てが終わった後の自らの道筋など何も見えなかった。
彼女の言葉は相手を奮い立たせるためだけのものかもしれない。けれど日常に再び戻ることをもし許されるなら、これ以上のことはなかった。
「では晶、幸運を」
彼女は静かに席を立つと店を出ていった。
不安がない訳では決してなかった。でも晶は残された相手の言葉を胸に置くと、新たな思いで店を後にした。
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