7.過去との再会
「この街に戻っていたとは驚きだ、晶」
大きな窓の傍に立った男は冷然とした声でそう言った。
目前の窓からは屋敷の広大な敷地が見渡せている。
男が身に纏うのは仕立てのいいグレーのスーツ、銀色のタイ。
身長も体格も標準を大きく上回ることはないが、圧倒的存在感がそこにはある。
シリル・ブラッドフォード、ブラッドフォード家の若き主。この街で彼を知らない者はいない。
今年二十五才になる彼は五年前、先代である祖父からその全てを相続した。
表の顔と裏の顔、そのどちらも有するブラッドフォード家の生業を誹謗する者はこの街にいない。表での貢献度は高くこの街にブラッドフォードの事業、彼の存在は必要だった。
表と裏、彼が両方で財を成していることは皆知っているが、皆黙認している。法を重んじることと彼への迎合、いつか街の住人達がどちらかを選ばなくてはならない時が来たら、その答えを彼らの多くが共有していた。
「だがお前と再び会えたのは悦ばしい事実だと私は思う」
太陽の光が降り注ぐ窓の傍、振り返ったシリルの顔に笑みはない。
陽の光さえもその意味を潜め、影と共に重い気配となり辺りを漂う。
非の打ち所なく整った相貌、透けるような白金の髪、揺らぐこともない碧い瞳。
上品さの中に粗野な暴力性を忍ばせるその翳りない美しさは見る者全てを圧倒していた。
「晶」
シリルの指が犬でも呼ぶように動く。
晶はこの部屋に足を踏み入れてから言葉もなく、扉の前で立ち尽くしていた。
相手に歩み寄ろうとするが、まるで動かし方を忘れてしまったように足元が覚束ない。ようやく一歩踏み出せた足は鉛のように重かった。
「あまり変わっていないようだな。いや、やはり変わったか」
相手の前に立てば、その手が髪に触れる。
流れるように動いた指先は頬を捉え、唇を掠めていった。
喉は渇き、冷たい汗が背を伝った。顔を伏せることも目を逸らすこともできずに、晶は目前の相手を見据えていた。
「面談を待つ者はまだいたが、もう会う必要はないようだ。屋敷には新しい部屋も用意してある。荷物もこちらで全て取り揃える。これまで持っていたものはここでは必要ない。だからお前はもう帰る必要もない」
晶は届いたその言葉に戸惑った。面談を難なくやり過ごせたことにはやや安堵を覚えるが、今後を思えば相手の言葉に従う訳にもいかなかった。
「すみませんがブラッドフォードさん……一度家には戻らせてください。明日また必ず足を運びます……」
「明日また、か。随分簡単にその言葉を言うのだな、晶。二年前何も告げずに去ったお前が明日必ず戻るという保証は?」
「……保証、ですか?」
こちらの言い分が簡単に通るとは思ってなかったが、返す答えに窮する。言葉もなく俯くと、より近づいた相手の指が顔を上げさせた。
「晶」
「……はい」
「先程お前が変わったと言ったが、やはり変わっていないようだ。よく観察すれば分かる。瞳は変わっていない。誰のものにもならないと全てに抵抗する目だ。お前にどれだけ近づこうとあの時もそれは変わらなかった」
吐息が届くほど迫った相手の気配に晶は身が熱くなるのを感じた。今度は下を向くことも許されず、その碧い瞳を間近で見る。だが相手が告げたあの時が一体どの時かも分からなかった。それほどに過去の自分が彼に心を弄ばれ続けたことを晶は思い出していた。
二年半前、ミナの采配によってここに送り込まれたのはシリルが異国の少年少女を〝目新しい玩具〟として欲していたからだった。
ミナが求める情報を得るには、とにかく集められた他の子達より抜きん出なくてはならなかった。内情を探れるほど相手に近寄らなければ、何も手に入れることはできない。それができるか不安だったが、運よく他の子達より多少気に入られることができた。しかしこの相手に近づけば近づくほど、彼がその美しい相貌とは裏腹に得るためにはどんな手段も厭わない残酷で酷薄な面を併せ持つ人間だと知ることになった。
「そうだな、では再び会えるまで何か預かっておこう。お前のその黒い瞳ならそれを果たせそうだ」
「えっ……?」
「片方あれば充分だろう」
そう告げた相手の掌が右の目を覆った。それに驚きを覚える間もなく、ゆるりと動いた親指が目の下を抉るように圧迫する。
力ではなく、その冷たい感触に動きを奪われる。
晶は残された視界で相手の姿を捉えるが、十五の時と変わらぬ自分が今もここにいるのを感じ取っていた。
あの時もこれまで対峙したことのなかった存在であるこの相手に、大きな怖れを感じた。でもそう思いながらも、自らの心の中にある別の感情にも気づいていた。
人は輝きを放つものに惹かれる。明るい輝きだけでなく、それが昏いものだとしても同様だった。
皆、愛されようと互いを牽制しあった。彼の心など誰も手に入れらないと分かっていても、縋るように得られもしないものを欲しがった。憎しみと諦め、皆の中でその思いが交錯した。晶自身も例外なくその渦中にいた。当初はシリルに触れられることを怖れていた。実際触れられることはあったが危惧していたような性的な接触はなかった。でも次第にもっと触れられたいと自ら願うようになっていた。
「どうした晶?」
「わ、私は……」
「以前のように躊躇いながら抗ったりしないのか?」
だが彼が〝目新しい玩具〟として自分達を欲したのは欲望に翻弄され、裏切られ、落胆に心染めゆくその姿を高みから眺めたかったからに他ならなかった。
半年間、晶はミナの指示に従う努力をしたがそれ以上は無理だった。死んだような目になっていく仲間達を見るのに耐えられず、けれどそれは自身も変わらないはずだった。
あれから二年経ったが今またこの場で同じことが再現されようとしている。覚悟を決めて戻ったつもりだったが、その決心が揺らぎ始めている。
晶はシリルが東洋系の秘書を欲していることと、自身が求められていることとが同一とは思っていなかった。全ては彼の余興の一部にすぎない。唯一理由として考えられるのは彼自身が放逐したのではなく、自ら姿を消した相手に未だ支配的な執着を残しているからかもしれなかった。
「私は……」
相手を強く見据えたはずだったが、声は掠れた。自らの顔に怯えが貼りついているのも晶は自覚していた。向かい合う男は変わらぬ表情でこちらを見ていたが、ふと微かな笑みを浮かべると身体を離した。
「やはり変わったようだな、晶。前より従順になった。だがそれも計算なのか」
相手は言いながら部屋の中央に歩み寄る。自分から距離を取るその背に全身の力が抜けるような安堵を覚えていると声が届いた。
「リジー、いるか」
「はい、お呼びですか?」
「彼に言って彼女を自宅まで送らせてくれ」
扉が開き、一人の男が姿を見せる。
リジーと呼ばれた男は了承を戻すと、すぐに部屋を出ていった。
「晶」
振り向いた相手に晶は再度の緊張を覚えた。
彼の方に歩み寄る足は微か震えたが、それを覆い隠すように目前の相手を再び見据える。怯えはまだあったが自分にはやらなければならないことがある。ここでまた逃げ出してしまえば、同じことの繰り返しだった。
「明日の朝、お前の所に迎えを行かせる」
「……はい、分かりました……私のわがままを聞いてくださってありがとうございます、ブラッドフォードさん。明日からはご期待に添えるよう頑張ります……」
「だといいな」
言葉が届いたがその真意は掴めなかった。窓際に移動した相手の背に一礼を向けると、晶は残る緊張を引き摺りながら部屋を後にした。
「おいお前、こっちだ、ついてこい」
廊下に出ると先程の男が待っていた。そう呼びかけると彼は背後も気にせず先を歩いていく。
見上げるほどの長身。長い髪を後ろで束ね、黒いスーツに黒いシャツ、ノーネクタイ。全身黒ずくめの三十代半ばのその男に晶は見覚えがあった。名はリジー・ヘイズ。冷たい瞳と周囲を拒絶する黒い背中があの時も強く印象に残っていた。
相手を追って裏口から外に出ると、花が咲き誇る庭園を横切る。無言の相手の後ろを歩き続けて数分後に到着したのは、屋敷の駐車場だった。黒い男は広場に停められたリムジンの運転手に何か言づけると、こちらには何も言わずに屋敷に戻っていった。
いなくなった彼と入れ替わるように、リムジンからは運転手らしき若い男が降りてきた。立ち尽くす晶の方に二、三歩歩み寄った相手はぶっきらぼうに声をかけた。
「リジーから話は聞いた。早く乗りな」
彼はそれだけを言って車に戻っていく。
今目に映った相手のその姿に、晶は思わず声を漏らしそうになった。だが「ほら、早く」と窓から腕だけを出した相手にせっつかれ、急いで車に乗り込む。後部座席から話しかけようとするが、今度は「悪い。ここ、閉めるから」と続いた。
静かな音と共に運転席と後部座席を隔てる仕切りが上げられ、相手には言葉もかけられず、姿を再度目に映すことも叶わなかった。
晶は動き出した車の中で今見た相手の姿を蘇らせていた。
〝彼〟の眉尻には古い傷跡があった。
首元に僅か見えたのは覚えのある文字のタトゥー。
『そんな顔するな、俺は必ず戻ってくる』
もう忘れたと嘯いてもその相貌も声も忘れることなどできなかった。
ブラッドフォード家の運転手として今間近にいるのは、六年の時を経て再会を果たしたライだった。
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