6.過去と向き合う

 窓から陽の光が射し込んできた頃、部屋の扉がノックされた。

 歩み寄って開けた扉の先にはサラが立っていた。晶が残したメモを見て、リリアを迎えに来たようだった。

「いつも迷惑かけてごめんね、晶」

「いいえ、それに全然迷惑じゃないです」

 窺い見たサラの顔色は寝不足なのを差し引いてもよくはなかった。乱れた黒髪を掻き上げた指が心配になるほどに細く、最近また痩せたことが分かる。

 力なく下ろした白い腕にはいくつもの注射針の跡が残っていた。視線を感じた彼女の手がそれを覆い隠す前に、互いに気づかぬふりをして目を逸らしていた。


 その事実はこの街に住む誰もが知っていた。通りに出ればいとも簡単にドラッグは手に入れることができる。長い年月をかけて侵食したそれは違和もなく街に溶け込んでいる。駄目だと分かっていてもやめられない。命を縮めると分かっていても抜けられない。だが晶に彼女のような人達を責めることなどできなかった。

 子供だったとはいえ、あの頃の自分はそれドラッグを蔓延らせることに一役買っていた。街角に立ち、客に受け渡すだけの末端だったとしても現状の一端を担ったはずだ。それは決してなかったことにはできない、悔やんでも消えることのない、自らの過去だった。


「それじゃ、またね、晶……」

「晶、ごちそうさまでした」

「またいつでもおいで、リリア」

 声をかけると少女はにっこり笑って、母親と連れ立って帰っていく。しかし部屋の前でふと足を止めると小走りで戻ってきた。

「晶……」

「ん?」

「……ママはあんなだけど、私のこと……気にかけてない訳じゃないんだよ……」

「うん、それはちゃんと分かってるよ、リリア」

 呟く相手に晶は笑みを返した。

 隣の少女は思いをあまり表に出さないが、それは感情に乏しいからではなかった。彼女は幼いながらも置かれた状況を理解し、それでも絶望に呑み込まれないよう、日々を健気に生きている。サラはリリアを大事にしていない訳じゃない。素直で優しい心根の彼女を見ていれば、分かることだった。

「えっと……それじゃまたね晶」

「うん、またね」

 リリアは自分を待つ母親の元に駆けていく。

 扉向こうに消える二人を見送りながら晶は三年前に亡くなった母、未羅のことを思い出していた。


 ライがいなくなって約二年が経過した頃、未羅は突然夫との婚姻関係を解消した。結婚生活はとうに破綻していた。新たな恋人もいたはずだが未羅はその関係も絶つと、生まれて初めて真っ当な職に就き、酒や煙草とも距離を置いた規則正しい生活を始めた。

 彼女は不慣れながらも毎日食事の用意をし、心が離れつつあった娘との時間を持とうとした。晶は母のその変化に戸惑いを感じた。心の底ではうれしさもあったが、勝手だとか今更だとか思わない訳はなかった。しかし、これまで娘を顧みなかった未羅が一生懸命距離を縮めようとしているのは伝わっていた。彼女の思いを無下にするのは簡単だったが、この先何十年も経った時、母に背を向けた思い出しかないのは嫌だった。未羅を嫌いな訳ではなかった。諦めが心を離していた。互いの思いと時間があれば、いくらでも取り戻せるものだった。


 新たに始まった母との生活に当初はやはり戸惑いも感じたが、失われていた過去の時間は次第に取り戻されようとしていた。でもまだまだ続くはずだった彼女との時間は長くなかった。未羅は重い病に冒されていた。掴みかけたものを再び手放さなければならない突然の悲劇に晶は心を乱されたが、余命僅かと知った母がその時間を使おうとしたのは他の誰でもなく、娘のためだった。その願いに応えるために晶はこれまで以上の思いで母と向き合った。

 最期の時、晶は何も言わずに母の手を握っていた。過去を全てなかったことにはできないが、その上から新たな関係を築き上げることは可能だった。その時間はたった一年しかなかったが、かけがえのない想い出となるものだった。


「母さん……私……」

 零した呟きは終わりまで吐き出されることなく途絶えた。

 もし未羅が今も傍にいてくれても、自らが進む道を決めるのは自分でしかなかった。

 晶は部屋に戻るとコートのポケットから渡された電話を取り出した。

 結局ミナには何も言えないまま別れていた。

 しかし了承しなくとも事態は自分を乗せて勝手に進んでいくはずだった。でもそれでは駄目だった。こんな自分が何かを変えられる力を持っているなど、おこがましいことは考えられない。だが今度こそ過去の罪を贖えるなら、目を背けずに自ら正面から臨むべきだった。


 慣れない手つきで電話を操作し終えると、晶は相手が出るのを待った。

 リリアにサラ、彼女達の心を裏切るような罪を隠し続けていたくない。母がいたら何があっても自分の味方になってくれるだろうが、それなら尚更だった。

 それにもし……ライにもう一度会えたら、自分は彼の顔をまっすぐに見られるだろうか。否定しか出ないその答えは罪から逃げている限り、変わらないはずだった。

『どうした?』

 三度目の呼び出し音が鳴る前にその声が届いた。

 電話向こうは静かだった。

 彼女の息遣いすら聞こえず、けれど固い意思で晶は言葉を発した。

「明日……行きます」

『そうか、分かった……それなら明日、第一段階を通過した際に再び連絡してくれ。だが晶、一つ訊く。なぜこの件に関わることにした? 君は罪を償う方を望んでいたはずだ』

「あなたは……私が拒絶できるとは思っていなかったでしょう……?」

『そうだな、確率は半々だ』

 電話向こうの声は淡々と続いた。

 暫しの沈黙の後、晶はその問いにはっきりした声で答えた。

「臨まなければ何も進まない……あなたがそう言った。だから引き受けた」


 やり通せるかなど今も自信はない。彼女の指示通りに動けるかも分からず、今の自分に一体何ができるかも分からない。しかし過去を振り返って悔やんでばかりいても、何も変えることはできなかった。

 今も心に留まる六年前の記憶。

 もしライと再び出会えたなら、その時は僅かでも過去の罪を贖って、少しでも彼の前に立っていられる人間でいたかった。

『そうか……君の幸運を祈る』

 その言葉を残して通話は途絶えた。

 もう後戻りはできなかったが、立ち止まるつもりもなかった。

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