5.隣の男
子供の頃の思い出は、複雑な感情が入り混じったものばかりが過ぎる。
晶が十一才の時、母親の未羅はある男と婚姻関係を結んだ。義理の父親となったのは産廃回収を生業にするビル・フレッチャーという四十半ばの男だった。フレッチャーにとっては三度目の結婚だったが、彼は行き過ぎた酒飲みでもギャンブル狂いでも、家族に暴力を振るう男でもなかった。しかし彼が家にいる時は、晶は以前にも増して部屋の外にいることが多くなっていた。
「何してるんだ? こんな所で」
ある冬の夜、晶はいつものようにアパートの階段に座ってあてもない時を過ごしていた。
三階の踊り場で足を止めて声をかけてきたのは、二ヶ月前の年暮れに引っ越してきた隣人だった。粗暴そうな外見から最初は警戒心を抱いていたが、数回言葉を交わし、互いの名を知ってからは挨拶以上の簡単な会話もするようになっていた。
「どうした、また閉め出されてるのか」
無言のままでいると傍に歩み寄って彼はもう一度訊ねた。
若い母親とその恋人、それと身の置き場のなさそうなその娘。この二ヶ月、何度も同様の姿を見かけていれば隣室の家庭事情は粗方推測できるはずだった。
「別に……閉め出されてるとか、そんなんじゃない……」
「そっか、それならいいけどこの場所は随分冷えるな。ただの時間潰しならいい加減家に戻れよ、風邪引くぞ」
彼は軽く笑いながら帰宅を促したが、晶は何も言わずその場から動かなかった。
「何だ、母さんと喧嘩でもしたか?」
「ううん……母さんは今出かけてる……」
続く問いに晶はただそう答えた。
隣人の親切心は分かっていたが、家には戻りたくなかった。母は夕方から出かけていた。部屋には新しい父親だけがいて、だからこそ家には帰りたくなかった。
「寒くても別に構わない……この場所が好きな訳じゃないけど、あの人が家にいるから私はここにいたいだけ……」
「えっと、あの人ってフレッチャーさんのことか? 俺もあんまり話したことはないけど、お父さんだろ?」
「お父さんじゃない……義理だし、母さんの夫って言った方がいい……」
「へぇ、結構言うね」
「……だって本当のことだから」
「そっか、本当のことか……」
隣人は呟くと続く言葉に窮する表情を見せた。
新たな父となったフレッチャーは妻の連れ子を娘として見ていなかった。実子ではないからそれは当然ではあるが、彼は義理の娘としても見ていなかった。新しい妻がいない時や、席を外した隙に触れてくる。十一才の子供だとしてもそれに隠された意味合いが分からない訳はなかった。
こんな思いをするのは全部あの男のせいで自分は悪くない。晶は心の片隅で自分にそう言い聞かせたが、その傍らでもしかしたら自分にも非があるからこうなっているのではないかとも考えていた。現状の原因は自分にもある。もし本当にそうなら、侮蔑や軽蔑の目を向けられるのは自分の方ではないかと感じていた。
「なぁ、名前、確か晶だったよな?」
しばらくの沈黙の後その声が届いた。
彼は一体どんな目で自分を見ているのだろうと、晶は恐る恐る顔を上げた。だがそこには届いた声と同様の穏やかなものがあるだけだった。その表情にあるものを十一才の晶には推し量ることはできなかったが、少なくとも自身が恐れていたものは見えなかった。
「まだここにいるつもりならこれやるよ、晶」
そう言って彼が差し出したのは直前まで身に着けていた手袋だった。一見して長年大切にしていたと分かるその焦げ茶色の手袋は、ただの隣人から貰うには過ぎた贈り物だった。
「ううん、こんなの貰えないよ。だってこれ、とても大事にしてた感じだもの」
「まぁ気にするな。俺だって一昨日、そこの裏で拾ったんだから」
「えっ?」
「嘘だよ。ほら、取っとけ」
どこまで冗談なのか分からない言葉を告げると相手は手袋をやや強引に手渡した。惑いながらも受け取ると、彼は晶の髪がくしゃくしゃになるほど大きな手で撫でた。それは突然の接触だったが、そこには不快さも求める見返りも感じなかった。晶は相手のその手に微笑みを返したが、それが自らが浮かべた久しぶりの笑みだと気づいていた。
その夜以降、ライとの距離は日を追うごとに狭まっていくことになった。
挨拶以上の会話は目に見えて増え、道で会えばそのまま一緒にアパートの近辺を散歩したり、時には遠出をして公園の屋台のアイスクリームを奢ってもらったりもした。ライが在宅であれば階段で寒々とした時間を過ごすこともなく、彼の部屋を訪ねることもあった。
「俺の祖父さんも晶と同じ東洋系だったんだ。俺の名前は祖父さんの名を半分貰って母親がつけた。ライゾウって名だったらしい。ここに入れてるタトゥーはその文字を使ってる」
ライが指した首のタトゥーは晶の読めない文字で描かれていた。彼の母親は転々と土地を渡り歩く流浪の民だったらしい。確かにライの顔立ちは東洋系だけでなく、様々な人種が入り混じったものだった。
「その傷はどうしたの?」
ライの右の眉尻には斜めに走る傷痕が残っていた。
「これか? これは昔、四人の美しい女性達が俺を取り合った時についたんだよ。マリアにクリスティーナにジャスミンにヨンア……ああ、いい女達だったなぁ……」
「……最初から本当のことを言う気は全くないんだね……」
晶はライがよく作ってくれた紅茶とミルクを半分ずつ注いだ飲み物を飲みながら溜息をついた。
ライは売人でもギャングでもないようだったが、普通の職業に就いているようにも見えなかった。昼間も家にいることもあれば何日も戻らないこともある。
それを訊ねればいつも話を逸らされ、結局最後まで教えてもらうことはできなかった。でも晶は彼が後ろ指を指されるような、陽の下を顔を伏せて歩くような、そんな後ろ暗い生き方をしている人間だとは思っていなかった。冗談で誤魔化されることはあっても、彼が人として常に誠実であろうとしているのは感じ取っていた。それが子供が持つただの動物的勘でしかないとしても確かだと感じていた。
父親の代わりでもなく兄の代わりでもなく、恋人と呼ぶのはもっとあり得なかった。
約半年の間、晶とライの関係はそんな感じのものだった。
初恋と呼んでいいかもしれなかったが、晶自身もその思いも多分幼すぎていた。隣人もその思いに気づかないふりをし、晶自身も自らの思いに気づいていないふりを突き通した。当時の晶にはそんなやり方でしか秘めた思いに向き合えず、けれど思いは叶わないとしてもこの関係はずっと続いていくものだと思っていた。
だがそれはある日突然終わりを迎えた。
新しい仕事のためにライはこの地を離れなければならなかった。晶は何も言葉を見つけられずに彼の前で黙ったままでいた。自分はあくまでもただの隣室の子供で、何かを約束できる立場でもない。
それでも別れの日、彼は戻ってくると言った。そしていつもと変わらぬ笑顔を見せた。
晶は彼に笑い返したが、その時から儚い夢や希望は心の隅に追いやると決めていた。思いが強くなればなるほど、失った時の痛みも大きくなる。そのことはとうに理解していた。
半年が過ぎ、一年が過ぎたが彼が戻ってくることはなかった。
でもその時にようやく心の隅に追いやっていたはずの思いを、密かに抱き続けていたことに晶は気づいていた。だがそれでどうなる訳でもなかった。彼との間には元よりささやかすぎる思い出しかない。
彼にとってはとっくに忘れ去った出来事であるかもしれない。しかし手に届かないと思えば、焦がれる思いはより強くなる。年を重ねるごとにその輪郭はよりはっきりとしていく。
もう忘れたと嘯いても本当は心のどこかで思っている。既に自分はあの時のアパートにはおらず、道標も失われてしまっている。けれど今も残された思いは無情なその事実の上にあり続けていた。
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