4.隣の少女

 アパートに帰り着くと、辺りは既に明るくなっていた。

 日中でもあまり陽の射さない玄関ホールはいつも通りに雑然としていた。

 この街に戻って半年、この場所に居を移して二ヶ月。近辺の治安はよい方とは言えないが、ここの住人達は犯罪や暴力沙汰とは比較的距離のある生活を送っていた。

 晶が住む五階フロア五室の内二つが、現在空き部屋だった。五○四号室には無口な初老の男性、隣室の五○二号室には十才になる娘と二人暮らしをする若い娼婦が住んでいた。


 いつもより重い足取りで上階に向かい、四階の踊り場で足を止めると階段に座り込む小さな人影が目に入った。人影はこちらの気配に気づくと、眠そうな顔を上げた。

「……晶、おかえりなさい」

「ただいま、リリア。どうしたのこんな所で」

 そこにいたのは隣室に住むリリア・クルスだった。まだ早朝と言っていい時間にそんな場所にいる彼女に訊ねると、小さな声が戻った。

「昨日はママが家でお仕事してたから、ここで待ってたら朝になってた……」

「そうなんだ、今、サラは?」

「お客さんはもう帰ったけど、今度はイアンが来てる。だからまだ入っていいって言われてない」

「そっか……」


 リリアの母親であるサラは自宅でも時折〝仕事〟をしていた。彼女の現恋人であるイアンはこの辺りを縄張りにする娼婦達の仲介人で、ドラッグの売人も兼ねていた。サラは見る限り娘をおざなりに扱っている訳では決してなかったが、年若い彼女が時に優先させてしまうのは恋人の方であるようだった。

「リリア、家においでよ」

「でも晶……仕事帰りで疲れてるでしょ?」

「そんなの気にしなくていいよ。おいで、温かい飲み物を作るよ」

「うん……ありがとう、晶……」

 リリアは立ち上がると少し惑いを残しながらも傍に寄り添ってくる。晶はサラ宛のメモを隣室の扉の下に滑り込ませると、彼女と自室に向かった。


「今着替えてくるから、ちょっと座って待ってて」

 声をかけるとリリアは古びた椅子に腰を下ろす。

 ささやかな我が家は全てが快適とは言い難かったが、広さは一人住まいには充分すぎるほどだった。大小二つの部屋とシャワー付きの洗面所。この部屋で一番大きな家具は古道具屋で安価で手に入れたかなり年期の入ったテーブルとチェア二脚だったが、それを使用する来客は今のところこの隣室の少女だけだった。

「はい、どうぞ」

「ありがとう、晶」

 着替えを済ませた晶が紅茶と温めたミルクを半分ずつ注いだマグカップを手渡すと、少女は礼を言って大事そうに口に運ぶ。一口飲んで「おいしい」と微笑む姿を目に映せば、晶の顔にも笑みが零れた。

 リリアもサラも出身はこの国ではないはずだった。状況も年齢も異なるが似通う境遇の彼女達を見ていると、脳裏には母といた頃の記憶がどうにも蘇る。


 晶はこの街の生まれだが、母の未羅みらはよそ者だった。身重でこの国に入国し、十九才で晶を産んだ。父親がどんな人なのか晶は名前すら知らない。でも代わりに物心つく頃から未羅と関わり去っていく男達を何人も見てきた。彼女は男の存在に依存しなければ生きられない人だった。その相手は行きずりの者もいれば、何ヶ月か続く者もいた。けれどそれは母のせいなのか彼らのせいなのか、彼女が誰かとずっと添い遂げることはなかった。母が男といる時は晶もいつも部屋の外にいた。


『どうした、また閉め出されてるのか』

 ふと蘇った言葉が記憶の奥から顔を出す。今日はどうして彼の言葉を何度も思い出してしまうのだろうと晶は再びの苦笑を浮かべた。

 十一才の頃住んでいたアパートの隣人だった彼は、何かと自分を気にかけてくれていた。

 歳は二十二、三。背が高く身体も大きく、鋭さの混じった端整な顔立ちをしていた。無精髭と、首と両腕に施されたタトゥーが警戒心を抱かせたがそれは最初だけだった。人懐っこい笑顔と気さくな人柄を持った人だった。

 名前はライ。

『そんな顔するな、俺は必ず戻ってくる』

 六年前そう言ったきり、自分の前から姿を消してしまった男だった。

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