3.夜明け前 (2)

 十四才の時に唯一の肉親だった母親を亡くし、その後多少紆余曲折はあったが、結局他の同じ身の上の子供達と同様に、この街の裏社会で幅を利かせるギャングの元に身を寄せることになった。表面的にでも彼らに忠誠を誓えば最低限の食べ物と住まいは約束されたが、代わりに街角に立ってドラッグを売り捌く仕事を与えられた。


 生きていくために仕方なかったとはいえ、それは今もその時も何の言い訳も立たない罪でしかない。その行為に後ろめたさを感じながらも一年が経過し、十五才になったばかりの頃、警備隊の一斉捜査の網に掛かり、他の仲間達と共に捕縛された。しかしなぜか一人留置場から出され、窓もない取調室のような場所でミナと出会った。

 彼女は簡単な自己紹介を済ませると、二つの選択肢を提示した。


 一つは数年の服役刑を受け入れ、自らの罪を償う。もう一つは犯した罪の抹消と引き替えに彼女が属する組織のために働くことだった。彼女達が入り込めない場所に潜り込み、彼女達のために情報を得る。身の安全の保証など何もない、言わば密偵のような役割だった。

 随分悩んだ末、結局後者を選んだ。それは服役刑を避けるためだったのか、同じ昏い道であるなら罪を贖うために少しでも人の役に立ちたいと思ったのか、その二つのどちらの思いがより強くあったのかは今でも分からないが、できるだけの努力はした。だが望まれた成果は結局何も得られずに二度とミナの元に戻ることもなく、それから二年もの時が経過していた。


「コルトヴァさん、私……」

「シリル・ブラッドフォード」

「え?」

「シリル・ブラッドフォードは今秘書を探している。秘書と言っても通常のようなものではないがな。晶、君にそれをやってほしい」

 届いた言葉に晶は虚を突かれていた。

 今この場で〝彼〟の名を聞かされるとは思っていなかった。

 二年前、自分に課せられた任務を放棄したのもこの街を逃げ出したのも、彼女が今名を挙げたシリル・ブラッドフォードから遠く離れるためだった。


「……コルトヴァさん、自分が何を仰っているか分かってますか? 私は以前……」

「ブラッドフォードは東洋系の秘書を求めている。それが〝なぜか〟は分かるな?」

「いいえ分かりません。こんな私に今更どうしろと? 彼に会いに行ったところで受け入れられるはずもない、彼がとても用心深い人間なのはあなた達の方がよく知っている」

 晶は再びマグカップに視線を落とした。

 ミナは当時、街に蔓延するドラッグの大元を追っていた。彼女が疑惑のその矛先を向けたのが、この街の誰もが知る富豪のシリル・ブラッドフォードだった。

 だが街の有力者である彼の牙城を崩そうとするのは非常に困難でしかなかった。故に彼女は本格的な捜査に突入できるきっかけを掴もうと、そのために彼の傍に密偵を送り込んだ。しかしあの男、シリル・ブラッドフォードは十五才の少女が対峙してどうこうできる相手ではなかった。二年の時が経った今もそれは変わらないはずだった。


「コルトヴァさん、あなたは間違ってる。あなたが今しなければならないのは私に新たな指示を出すことではなく、私を捕まえることです。違法薬物に関する罪はどれだけ過去のものであろうと時効はないはずです。罪に問うのは今でも可能ではないでしょうか」

 晶は相手を見据えた。

 今自分が選ぶべきは二年前のやり直しではなく、罪を償うことだった。

 テーブルの向こうには変わらぬ表情がある。

 その表情は変わらず硬く、感情は奥深くに沈んでいる。

 長い沈黙が終わりを迎えると、静かな声が返った。

「そうか、君が望むならそれも仕方がない」

「はい」

「だが私はこうもできる。私は君の罪状にができる。君が引き受けないと言うなら、私はそれを実行するだけだ。覚えておいてくれ。私は犯した以上の罪を君に負わせることもできる」


 晶は無言で相手を見返した。

 自らの事情のためには不正さえも辞さない。彼女がそこまでして自分を引き入れようとしていることが理解できなかった。彼女はこちらを買い被りすぎている。非力で不器用で臆病でそして狡い自らの本質を思えば、苦笑だけが漏れた。

「コルトヴァさん、あなたがそうしてまで私を引き入て、何か実のあることができるとでも?」

「今度こそ目的を果たしたい。それにはあの男が君に注視していることが重要なんだ」

「彼の元に行ったとしても私が受け入れられるとは限らない」

「だが臨まなければ何も進まない」


 晶はその言葉に俯くと、冷めていくカップの中身を眺めていた。

 自分が罪から目を逸らし続けていたことは分かっていた。忘れたい過去は願っても決して消えたりしない。そうやって願うこと自体、罪から逃れたいと思っているのと同等であるのも分かっていた。

 一度は去ったこの街に自分は戻ってきた。新しい職に就き、新しい住処も手に入れた。そんな真っ当な暮らしを送りながらも、本当は彼女が現れるのを待っていたのかもしれない。形は違っても今でも過去の罪が贖えるというのなら、それに自分は真正面から向き合わなければならないのかもしれなかった。


「晶、これを」

 テーブルには掌より小さい、晶がこれまで目にしたこともない形状のものが置かれる。その隣にはやや膨らんだ封筒が並んだ。

「これは政府が昨年開発した携帯可能な電話機だ。破損しない限り内部の特殊電池で半永久的に使用できる。この右端のボタンを使えば直接私に繋がる。だがこれを使用するのは定期報告以外は対処不可能な事態が起きた時だけにしてくれ。それとこちらのは当面の資金だ」

「コルトヴァさん、私はまだ……」

「面接は明日の十時だ。場所は分かるな?」

 彼女の強い言葉が届く。

 了承は口にしていないが事態は既に進み始めているようだった。

 心の中では躊躇いと決心が未だせめぎ合っている。

 晶は最後まで相手に意味のある言葉を返すことができなかった。

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