2.夜明け前 (1)
国土は世界地図の北に位置する。
冬の寒さと夏の湿気には厳しいものがあるが、季節の移り変わりを感じられる四季が存在し、近年は隣国との軍事的対立にも無縁。そのため内政も安定状態が続き、文化水準は高位置を保持していた。
この国の約四分の一が国外から流入した人種で占められていた。彼らの立場は低く、主に肉体労働、深夜労働に就く者が多い。努力次第で生活の向上も計れるが、それを可能にできるのは一握りにすぎない。生まれつきの連鎖から抜け出すには多大な努力と運を必要とし、絶望的でないとしても大半は一度ではない挫折を味わい、そのまま一生を終える人がほとんどだった。
晶も四分の一の一人に数えられ、半年前から就労するナイトクラブの仕事も奇跡的に得られたものだった。生まれ故郷であるこの街に一年半を経て戻った当時はアテもなく、その日暮らしが続いたが、定職に就けた後は状況はかなり改善された。時折水しか出なくなるシャワーや窓から吹き込む隙間風に閉口することはあってもそれは微々たることでしかなく、充分満足できる暮らしが送れていた。
午前四時。
建物の合間から見える空は明るくなり始めている。
ウェスにお疲れと声をかけて店を出ると、晶は駅に向けて歩き出した。
駅まで十分、そこからメトロに乗って五駅、降車して再び徒歩で十五分。一時間弱をかけて辿り着くアパートは疲れを取るためだけの場所と言ってよかったが、誰にも邪魔されない大切な場所だった。
朝靄の中、まだ灯るガス灯が石畳の舗道を照らす。
吐く息が白くならない、いい季節にいつの間にか移り変わっていた。
開店前のショーウインドーに時折目を遣りながら、晶はひと気のない舗道を歩いた。
通りにはテーラーや宝石店など高級店が建ち並ぶが、四十年前の大戦時も焼失しなかった歴史ある建物はそのまま権威になっている。
磨かれた硝子向こうの品々は決して手に届くものではないが、ささやかな好意はある。モノトーンの春物コートに目が行って、それにときめきを覚える自分はまだ人並みではないかと思えれば一時の儚い安堵も得られていた。
到着した駅に人影はまばらだった。
今から仕事に向かう者、家へ帰る者、こんな時間に移動するどの人も疲れた顔をしていた。ホームでしばらく待つと古びた車両が滑り込んでくる。乗り込んでドア近くの席に座って目を閉じても、眠ってしまうことはできない。それでも視界を遮断すると、昨夜の疲れが少し紛れていくようにも感じた。
五駅目で降車し、駅舎を出るとそこには先程とは違う景色が広がっている。
石畳の舗道が続くのは同じでも雰囲気は異なる。道なりに建物が連なるが、こちらはただ古いだけだった。
補修や改修という言葉はこの地区には当てはまらない。周囲には違法に増築された建物、自然瓦解した無人の家屋、それらが建ち並ぶ不格好な街並みがある。けれども心躍る要素が何ひとつないとしても、晶は先程の街とはまた別の意味でここに愛着を寄せていた。
硬いベッドが待つ我が家までもう少し。
しかし、スピードを増した足は不意に止まる。
明滅するガス灯の下、駐められた銀色の旧型クーペが目に入る。
富裕層か、もしくは国家公務員。この街で車を所有する者は限られる。こんな時間にこんな場所にいる者はもっと限られる。車の傍でこちらを見据える人影を捉えると、覚えのある声が届いた。
「久しぶりだな、晶・
月を覆う黒い雲が流れ、見通しが僅かよくなる。
薄暗がりの下には、怜悧な美貌がある。
相手との距離はまだあったが晶は逃げ出そうとも思わなかった。一見細身に見える彼女の身体には強靱な筋肉も備わっている。逃亡を図ってもすぐに捉えられるのは分かっていた。
「……コルトヴァさん……」
彼女の名はミナ・コルトヴァ。
この国の警備隊に所属する元軍人の犯罪捜査官。漂う雰囲気からその肩書きは今も変わっていないように見えた。
「あれから二年も経つのか。晶、私にとりあえず言うことは?」
「……あの時のことは私も反省している……けれどあなたの指示に従う努力はした……」
「そうだな、その努力は認めよう。だが結果がどうであろうと、君にはあの後も私の元で働いてもらいたかったのだがな」
晶がミナと出会ったのは約二年前の十五才の時だった。
拒否もできない立ち位置の中、彼女に〝あること〟を指示され、しかしそれも果たせずに全てを放り出してこの街からも逃げ出していた。
「帰宅途中だろう? コーヒーを奢ろう」
無言でいるとミナが傍に歩み寄る。彼女に促され、誘導されるまま車に乗り込むと、銀色の車体は明け方の道を走り出していた。
「バーテンダーの仕事は楽しいか?」
運転席から届いた質問には何も答えずに、晶は外の景色を目に映していた。
予想はしていたが職場はとうに知られているようだった。この場所で待っていたなら住まいも同様のはずだった。次々に外堀を埋められるような焦りが足元に漂うが、この街に舞い戻ればいずれこうなるのは分かっていた。
しばらくして車は街外れにある建物の前で止まった。『カフェ・リアーナ』は夜通し働く人達のために早朝から店を開けていた。
「やぁ、おはよう晶。それに……コルトヴァさん?」
店の名物であるデニッシュのショーケース前にいた店主のニキ・ロドリゲスが声をかけてくる。しかし目前の奇妙な組み合わせを見て、彼の笑顔は次第に微妙なものになる。
「おはよう店主、私にはコーヒーを。それと……」
「私にも同じものをお願いします、おじさん」
晶は彼に曖昧な表情を向けると、先を行くミナの後を追って窓際のテーブル席に着いた。
「君もこの店にはよく来るのか? 店主とは知り合いのようだ」
「ええ、まぁ……」
「私もここには頻繁に寄らせてもらっている。まともなコーヒーを出す店はこの街ではもう数えるほどしかないからな。ジーノ運河が内戦で使用不可になってから、豆の輸入は非常に困難になっている」
今朝の客は珍しく少ないようで、他にはカウンター席にいる三人しかいなかった。
向かいに座るミナはコートを脱ぐことはしなかったが、革の手袋を外してテーブルの端に置く。その顕わになった左手は引き攣れた古い火傷跡で覆われていた。彼女の左頬下部から首にかけても同様の傷跡が残されている。けれど昔も今も、彼女は過去のその古傷を人目から遠ざけようとはしていなかった。
歳は二十代後半か三十代の初め。元軍人の彼女がこれまでどんな人生を送ってきたかを簡単に想像することはできなかった。ニキが運んできたマグカップに視線を落とすと、晶は相手から届く言葉を待っていた。
「晶」
「はい」
「君はこれから自分がどうなると思っている?」
その言葉に晶は約三年前の自分の姿を蘇らせた。
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