ダーク&チェリー いつかもう一度会えたなら

長谷川昏

1.戻る過去

1.いつもの夜 

『そんな顔するな、俺は必ず戻ってくる』


 そう言って髪を撫でて笑いかけた彼の顔を、もう忘れてしまいそうだ。

 六年前、相手になけなしの笑顔を返した十一才の自分をふと思い出して、あきらは苦笑にも似たものを零した。


「どうした? らしくもない」

 白いシャツに黒いタイとベスト。同じバーテンダーの制服を纏った隣のウェスが目敏く声をかけてくる。

 時刻は深夜二時、まだ明け方まで続く勤務時間の真っ直中だった。

 自分としてはらしくないこともなかったが、どうしたということもなかった。カウンター越しの喧噪に目を戻して、晶は言葉を返した。


「別に、何でもない」

「はぁ……別に何でもないか。そんな返事はまぁ、予想してたけどね……」

 溜息をついてウェスは肩を竦める。

 納得のいかない表情がそこにあるが、晶としてはこれ以上の言葉で答えようもなかった。続く声は大音量の音楽に紛れて届いた。

「なぁ晶、オレはなぜお前がもっと稼げるダンサーやウェイトレスの仕事をやんないんだろうってずっと思ってた。だけど最近その理由が分かってきた気がするよ。神様はどうやらお前に姿形のよさしか与えなかったんだな。その姿に見合う愛想や愛嬌は一体どこに置いてきたんだ? 部屋のクローゼットの中か? ベッドの下か? それとも母親の腹ん中か? ってお前、オレの話をもう聞いてもいない?」


 口数の多い同僚の愚痴もそこそこに、晶は新たな客のオーダーに応えていた。

 半年前この店で働き始めた頃は不慣れな手順に振り回されるばかりだったが、今ではある程度給金に見合う働きはできているのではと思っている。

 夜通し次々に訪れる客達の注文を請け、レシピ通りに作り上げて彼らの前に差し出す。努力次第で技術や効率の向上を図れるこのバーテンダーの仕事は他の何より自分に合っていた。

 酔いたいだけの客が酒の味など全く気にしていなくても、少々おしゃべりがすぎる同僚が隣にいたとしても、晶は最低限の暮らしを維持できるこの仕事にありつけたことに感謝しない日はなかった。


「はいはい、すみませんね。どーせオレなんて、晶にとっては顔しか取り柄のない空気だもんな」

「そんなことない、仕事のできるいい先輩だと思ってる」

「何かそれ、遠回しの厭味に聞こえないこともないんだけど」

「それもそんなことない、考えすぎだよ、ウェス」

 カウンター越しの広大なフロアには、今夜も着飾った男女が大勢溢れていた。

 ここ『クラブ・ヴィラン』はこの国の主要都市、ブラックウッドシティの中心にある高級遊興店だった。違法すれすれの薬物や過度な享楽が些か蔓延しているが、元々の客筋はいい。そのせいか犯罪の仄暗さや殺伐とした雰囲気とは縁遠いものとなっている。

 客の多くがこの街の特権階級の人達だった。生まれにも境遇にも恵まれ、晶の半年分の稼ぎをひと月で得られるような人達でもある。そんな高級店でこの国では少数派でしかない東洋系の自分が雇われたのは、奇跡に近いと晶は思っていた。それに初心者バーテンダーに時に優しく、時に厳しく接してくれた先輩ウェスの存在があったことも重ねて恵まれた出来事だった。


「なぁ晶、ちょっといいか……?」

 潜めたその声が喧噪に紛れて届いた。

 カクテル用のライムを切り分けようとしていた手を止めて晶は顔を上げた。

 そこにはこちらを見るウェスの真顔がある。多少軽くは見えるが、彼は自己申告通りハンサムだった。焦げ茶色の髪と緑の瞳が魅力的な彼は女性客に人気があり、よくチップで稼いでいる。だが晶自身の言葉で忌憚なく表現すれば、少々物好きでもあった。

「今日仕事が終わったら、どこかに出かけないか? そうだな、二人で朝日でも見に行ってその後は……」

 愛想も愛嬌もないと言ったばかりの相手に時折こうやって誘いをかけてくる。そんな毎度の台詞には、同じ言葉を返すのが常だった。

「仕事が終わったら、まっすぐ家に帰ってまっすぐベッドに直行する」

「はぁ? まーたそれかよ? それなら今日はオレが一緒に帰って、一緒にベッドに直行してやるよ」


 いつもなら一度の返しで終わるはずだが、今夜は軽口が続いた。晶は再開させていたライムカットの手を止めて再び相手を見上げた。

「な、何だよ、そんな物騒なもの持ったまま睨むなよ。でも晶、お前、恋人っていうか決まった相手っていないよな? ならちょっとは誰かと遊んだって全然オレは構わないと思うんだけど。宗教上、誰かと付き合うのを禁止されてる訳でもないし」

 相手の言葉に晶は黙した。

 確かに現状はその通りではあるが、だからと〝それなら〟というものでもない。何も答えずにいると、手入れの行き届いた相手の手が髪に伸びてきた。

「客にもよく誘われてるだろ? 若い奴にも年寄りにも男にも女にも。見た目のいい東洋系はこの街の金持ちに人気なんだよ、特にここに来るような奴らにな。性別も歳も曖昧に見えるところが魅力的なんだろうな」


 続いた言葉に晶は再び無言でいた。

 自分の腰の辺りにまで届く黒髪は後ろでひとまとめにして、頭の高い所で結わえてある。高すぎず低すぎない身長と、痩せすぎでもなく豊満でもない体躯はウェスの言う通り中性的に映るらしい。その見た目と硬めの口調、仕事着である男女共通のバーテンダーの制服がその辺りをよりぼやけさせているようだった。

「だからオレには本当はどうなのか見極めさせてくれよ……」

 触れる同僚の手には熱がある。一時のその感情に流されてしまうのは簡単だが、後には惑いと後悔しか残らないはずだ。

 晶としては人が時に必要とするそれらのものを、嫌悪している訳でも否定するつもりもない。でも忙しく過ぎていく日々の中で自身の優先順位があまり高くないのも確かだった。髪に触れた相手の手をさりげなく外して、晶は指についた酸味の強い果汁を舐めた。


「ウェス、もし私と一晩過ごしたいなら二百だよ」

「へ? 何? 二百……?」

「最近は断るのも面倒になってきたから、相手からお金を貰って付き合うことにしてる。一晩二百。何も制約なく自由にしたいなら更にプラス百。複数で愉しむなら更にプラス五十、一人増えるごとに……」

「あー、晶、それ冗談……だよな?」

 うろたえる相手に、晶は手についた果汁を布巾で拭ってから答えた。

「冗談だよ、もちろん」

「そ、そうだよな。そういう冗談、真顔で言うなよ。本気にするだろ……?」

「全部冗談。一晩二百も取ってない」

「はぁ?」


 抜けた声を上げた相手に、晶は今晩初めての笑みを浮かべて見せた。悪趣味な言葉でからかったのは軽口の多い同僚に向けた牽制もあった。

 彼のことは嫌いじゃない。ただ相手の求めるものに自分がどうにも応えられそうもないと感じているだけだった。同じ職場の同僚としてはこれからも適正な距離感を保って、関係を継続させていきたいと思っていた。

「それも冗談かよ。随分人が悪いな、晶」

「キワモノに興味があるのも分かるけど、特にこれといった違いがある訳でもないよ。それよりもウェス、彼女が来てる」

 晶は目線でフロアを指した。

 そこには今ほど来店したばかりの三人組の女性客の姿がある。その中でも際立って美しい赤毛の女性がいる。彼女はウェスが以前から気に留めている常連客だった。

 視線に気づいたのか、相手がこちらを見て笑顔で手を振る。それを目にした隣の青年の顔には自然に零れた笑みが浮かんだ。


「ウェス、ここはいいから彼女の所に行ってきたら?」

「あ、ああ」

 そう応えてカウンターの外に出た相手はフロアに向かう。その少し浮き足立っても見える背に軽く笑むと、晶は傍の空のグラスに手を伸ばした。

 嫉妬や落胆など。寸前まで自分に向けられていたはずのものが容易く他者に移ったと思えば、それを抱くのが当然のようにも感じていた。けれどもそれらが胸に去来することはなく、そう思えばそういったものに欠けた自分がとてつもなく過不足な人間でないかと感じる時がある。

 俯瞰してみれば、取り返しのつかない方向へ無表情で歩み続ける自分の姿。

 正解も解決の方法も分からない不安に襲われることもあるが、だが一方で、だからどうしたという渇ききった思いもあった。

「晶」

 その声に顔を上げると、まだそこにウェスの姿がある。その顔はなぜか少し怒っていた。

「晶、オレはお前のこと、キワモノだなんて思ったことないからな」

 その言葉の後にはいつもと変わらぬ笑みが浮かべられる。「じゃ」と言って客の波に呑まれていくその背に再びの笑みを向けると、晶は「グッドラック」と小さく声をかけた。

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