第6話 JK引っ越し3
「おじゃまします……ふぅ、疲れた」
両手に紙袋を提げて、僕と美玲は帰宅する。
彼女は荷物を床に置くなり、疲労の滲んだ呼気を吐き出した。
「おじゃまします、じゃないだろ」
僕は靴を脱ぎ捨てながら、ぶっきらぼうに言う。
「ふぇ……? な、なにがですか?」
「ここはもう君の家でもあるんだから。『ただいま』でいいんだよ」
「……えへへ、わかりました。瑞季さん、ただいまです」
「ああ、おかえり」
僕は照れ臭さを誤魔化すために頬を掻き、家内の奥に入る。
リビングには五箱分の段ボールと共に、『後はよろしくお願いします』という簡素な置き手紙が残されていた。
僕が近くの箱を手元に手繰り寄せて、片付け始めようとすると……。
「あの、荷解き始めるのは明日からでも……」
「今から」
「いや、でも、疲れたじゃないですか」
「今から」
「……うぅ〜〜、わかりましたよ」
美玲は苦々しい表情で段ボールを開封する。
早々に引っ越しの作業を終えねば、彼女が学校に出るのも遅くなるのだ。僕が美玲を引き取った以上、責任を持って面倒を見なければならない。
そう思い、箱の中身を確認すると――。
「え……は、え?」
僕は顔に困惑の色を浮かべた。
美玲が作業の手を止めて、こちらを見やる。
「変な声出してどうしたんです?」
その問いかけに、僕は咄嗟に箱を閉じ、背筋を伸ばして答えた。
「な、なんでもないよ」
「むむ、怪しいですね。なにを隠してるんですか?」
美玲は浮気を勘繰る女もかくやといった様子で、膝立ちの状態から四つん這いになり、徐々に距離を詰めてきた。
「いや、頼むから、こっち来ないで」
「同居人に隠し事はよくないですよ……って、まさか!?」
僕が段ボールと共に後退していると、彼女は何か察したのか、急に飛び付いてくる。
「ちょ、やめ」
「その手を離してくださいっ!」
「離すのは構わないけど! その代わり怒らないって約束して! これは不可抗力なんだ!」
「なんですかその条件は! というか言い訳が見苦しすぎますよ! 大人しく観念してください!」
箱の端と端を持ち、引っ張り合いをしていると。
――ビリッ、凄烈な音を立てて段ボールが破れた。
その隙間から溢れ落ちたのは、色取り取りの下着の山だ。ブラジャーのタグに『E-75』と表記されており、それを見た僕は美玲に頬を抓られた。
「もう、もうっ、瑞季さんのばかっ!」
「いた、いだいッ、は、離してっ!」
「ええ、もう離れましたよ! 私と瑞季さんの心の距離が!」
「僕が離してほしいのはこの手だけだよ!」
僕の頬は最大限まで引っ張られた後、解放された。
甘い疼痛が生じる頬を摩っていると、なぜか美玲が寝室に移動する。こっそりとその後を追うと――彼女はあろうことか、タンスの中を漁り始めた。
「なにしてるんだよ!?」
「やられたからやり返してるだけです! 私の下着だけ一方的に見られるのはフェアじゃないですから! 瑞季さんのパンツはどこですか!」
「教えるわけないだろこの変態が!」
「むがーっ、私を本気で怒らせましたね!」
タンスの中が見る見る内に空っぽとなり、別の段の引き出しが開けられる。もはや下着を取り出されることより、片付けが増えることに危機感を覚えた僕は、タンスから美玲の体を引き剥がして――共に後ろへ倒れ込んだ。
美玲が僕を覆い被さる形となり、文字の如く目と鼻の先に彼女がいた。
「……ごめん、少し乱暴だった。それと、退いてほしいんだけど」
僕が顔を背けて頼み込む。
すると美玲は僕の顔を両手で掴み、強引に目を合わせた。
「いいえ、許しません」
美玲は熱を帯びた息を吐き、耳元で囁いた。
ぷっくりと涙袋が浮かぶ大きな瞳が、獲物を狙い定めるように細くなる。彼女は優婉に口元を歪ませて、自分の手足で僕の四肢を押さえ付けた。
「……な、なにする気だよ」
「瑞季さんが想像したこと、ですかね」
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「だめだって、僕と美玲はそういう関係じゃ――」
白く細い人差し指で唇を抑えられる。
「少し、うるさいですよ」
猛毒という名の甘美な声が鼓膜の奥に響き渡り、全身を蝕んだ。
僕の体はいとも容易く抵抗力を失い、まるで身を委ねるように、全身から力が抜け落ちる。
「ふふっ、いい子ですね」
美玲は僕の頭を撫でて、唇を近づける。
僕の震える唇と、美玲の小さな唇が重なりかけて――
「ふうぅぅっっ!!」
「あぶっ――」
盛大に息を吹き掛けてきた。
僕は咄嗟に目を閉じて、素っ頓狂な声を出す。
「あははっ、瑞季さん、あぶって、面白すぎです」
美玲は上体を起こし、堪え切れないとばかりに腹を抱えて笑っていた。
ケラケラと室内で響く笑い声に、僕は呆然と天井を眺めていた。
「……いつか絶対にやり返すから」
僕は動悸を鎮めつつ、低い声で宣言する。
「えへへ、どうぞ好きにしてください」
なぜか美玲は口元を緩めて微笑んでいた。
***
美玲の荷物や買い足した物を整理し終える頃には、外は真っ暗になっていた。
今朝まで最低限の物だけ置かれていた質素な部屋が、今では明るく賑やかな学生の部屋に様変わりしている。カラーボックスの上に小物が増え、余裕があったクローゼットの中も窮屈になった。
「本当に同じ家で暮らすんだな……」
僕は独りで寝室に佇み、何とは無しに呟いた。
美玲は汗を流すため風呂に入っている。手狭な間取りであればシャワーが流れ打つ音にドギマギするのだろうが、生憎と廊下や脱衣所を越えた先にある浴室の音はほとんど聞こえない。
「……僕も、しっかりしなきゃな」
今も美玲は心労が絶えないはずだ。
大切な家庭を失い、新たな環境を手に入れた彼女の精神的な疲労は計り知れないものだろう。
「……僕が美玲の心の支えになるんだ」
人の心は簡単に崩れ落ちてしまう。
それを誰よりも知っているから。
僕は己に言い聞かせるよう口にして、ふと、カラーボックスの上に伏せられた写真立てが目に止まる。
こういうのを魔が差したというのだろうか。
僕は写真立てを手に取った。
「…………っ」
高校の校門を背景に、美玲と両親の姿が写っている。
恐らく、美玲が入学式の時に記念撮影した物だろう。両親が晴れ着姿で美玲と笑い合っていた。
こんな風に、僕も美玲と笑い合えるだろうか。
僕は写真立てを置き直して、ベッドの端に座った。
「はふぅ、戻りました」
遅れて、美玲が風呂から出てきた。
彼女は薄いTシャツに短パンと、ラフな格好で僕の隣に腰を下ろす。
「あ……」
そして、写真が立てられていることに気づいた。
「いいん、ですか……?」
美玲の黒い瞳が揺れた。
亡くなった家族の写真は美玲にとって掛け替えのない宝だ。だが、僕の許可なく写真を置けば反感を買うかもしれない。そんな考えが交錯した結果、写真立てを伏せていた、というところか。
この子は、本当に、人のことばかり……。
「いいよ。美玲は自分が好きなようにすればいいんだよ、この先ずっと、君が独り立ちするまでは」
言い終わった途端、美玲の頬に一筋の涙が流れる。
「すんっ……私、もうダメかもしれないです」
「え、なにが?」
「……内緒です」
美玲は頭を僕の肩に預けた。
初めて、誰かと過ごす夜も悪くはないと、そう思った。
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