8月の長雨の時に…
8月11日から23日ぐらいまでの間、西日本を中心に記録的な大雨を観測した日々がつづいた。
四国地方では、太平洋側の南東斜面の地域で総雨量が1300ミリを超す豪雨になったと報じられた。
…など、この10日間大雨のニュースばかりがつづいたので気持ちがやんでいる。
その中で、昭和のテレビでおなじみの有名人の訃報のニュースがつづいた。
九州北部と広島市・廿日市市に大雨特別警報が発令された8月14日に、歌手・俳優のジェリー藤尾さんが天に召された。
おかあさまはイギリス人・おとうさまは高知県出身でNHK国際部勤務であった。
出生地は、おとうさまの赴任地であった上海である。
1957年に、バンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶でエルヴィスプレスリーの歌で『ハウンドドッグ』を飛び入りで歌ったことがきっかけでマナセプロダクションからスカウトされた。
翌年(1958年)に高校中退して、正式に芸能界入りした。
初舞台は、日劇ウエスタンカーニバルの出演である。(俳優のミッキーカーティスさんと作曲家の平尾昌昭先生も出演したあのステージと言えば分かります。)
1959年に東宝映画『檻の中の野郎たち』で俳優デビュー…
1961年に『悲しきインディアン』で歌手デビューを果たした。
1962年5月にNHKテレビの人気番組『夢であいましょう』に出演した。
1962年5月の今月の歌で歌った名曲『遠くへ行きたい』(永六輔作詩・中村八大作曲)が大ヒットした。
(『遠くへ行きたい』の歌は、のちに日テレ系の旅番組『遠くへ行きたい』の主題歌になった)
1964年に、タレントの渡辺友子さんと結婚して二女のパパになった。
(二人の娘さんは、一時女優をしていた。)
テレビ愛媛で日曜20時から放送しよった『オールスター家族対抗歌合戦』に家族全員で出演した。
1974年に、トヨタカローラのテレビCMに家族で出演した。
家族仲良しの芸能人一家の印象が強かったけど、1985年頃に夫婦の不仲説がテレビのワイドショーで報じられたことが原因で家族間にキレツが生じた…
その翌年、ジェリーさんは離婚した。
同時に、テレビでお目にかかる機会が極力少なくなった。
その間も、コンサートやディナーショーなどで活動はしていた。
二人の娘さんが結婚したことを機に、千葉県の有料老人ホームヘ移った。
2021年8月14日に次女さん夫婦の家で、生涯を終えた。
『遠くへ行きたい』の歌は、森山良子さん・石原裕次郎さん・さだまさしさん・ダークダックス・宮城まり子さん(ねむの木学園園長)・由紀さおりさん安田祥子さん姉妹…などの歌い手さんたちが、ジェリーさんの遺志を受け継いで歌われている。
8月19日の深夜3時頃に、四国地方で非常に激しい雨が降った。
し烈な雨音におどろいて起きたあと、テレビのデータ放送を呼び出して雨雲レーダーを見ようとした時に、俳優の千葉真一さんが天に召されたニュースを聞いた。
コロナ(ウイルス)による肺炎だった…
志村けんさん・岡江久美子さん・オムロンの創業者さん…につづいて、著名人の人がコロナで亡くなられた…
千葉真一さんは、福岡市博多区の出身…
学生時分は、機械体操の選手でオリンピックを夢みた青年だった。
高校3年のインターハイで優勝実績がある。
日体大に進学したが、練習中の負傷と経済的コンキュウが原因で大学を中退した。
失意にくれていた時に、東映ニューフェイス募集のポスターを目にしたことがきっかけで芸能界ヘ転向することを決意した。
応募総数2万6000人のトップで合格したあと、芸能界デビューを果たした。
1960年1月に、『新七色仮面』(日本教育テレビ~のちのテレビ朝日)の第5部の2代目蘭光太郎として主演デビューした。
他にも、たくさんのテレビドラマや映画に出演していた。
1968年から1973年まで山陽放送で土曜21時からしよったドラマ『キイハンター』に出演していた時に、共演していた野際陽子さんと出会った。
野際さんと結婚後、一女のパパになる。
一女は、女優で活動している真瀬樹里さんである。
野際さんと離婚後に、活動の拠点をアメリカに移した。
その時に、一般女性とサイコンして二人の男の子のパパになった。
二人の男の子は、俳優の新田真剣佑(あらたまっけんゆう)くんと真栄田郷敦(まえだごうとん)くんである。
新田真剣佑くんは、山本美月ちゃんと永野芽郁ちゃんと共演した『ピーチガール』・北村匠海くんが主演の『とんかつDJアゲ太郎』など…
真栄田郷敦くんは、田中圭さんと土屋太鳳ちゃんと共演した『ヒノマルソウル』や北村匠海くんと山田裕貴くんと今田美桜ちゃんたちと共演した『東京リベンジャーズ』…
…などの映画に出演している。
千葉真一さんは、アクション役者の養成所を作って若手俳優育成にも力を注いだ。
真田広之さん・志穂美悦子さん・堤真一さん…は、千葉さんの門下生であった。
千葉真一さんは、8月初め頃に入院して闘病生活を送っていたが、8月19日に帰らぬ人となった。
『暮らしの中の相談ごとおまへんか?四角い仁鶴がまーるくおさめまっせー』
NHK総合テレビで毎週土曜12時15分からしよる『バラエティ生活笑百科』のMCを務めていた落語家の笑福亭仁鶴さんが8月17日に大阪市内の病院で天に召された。
仁鶴さんの実家は、大阪生野区の鉄工所であった。
1962年に、六代目笑福亭松鶴(しょうふくていしょうかく)に弟子入りして、上方落語をきわめる…
1963年に吉本興業に入ったことを機に、ヨシモトのタレントさんたちとの交友を深める。
おもなつながりは、西川きよしさん・六代目桂文枝(桂三枝)さん・中田カウスさん(伯方島出身)…
落語家の他にも、テレビラジオなどのあらゆるメディアに活動の場を広げた。
ラジオは、『オーサカオールナイト夜明けまでご一緒に』(ラジオ大阪・火曜日のMC)・『ABCヤングリクエスト』内のコーナー番組…でMCを務めた。
テレビに初めて出演した『ヤングおー!おー!』(山陽放送で日曜17時30分本放送・南海放送は6日遅れの土曜17時30分放送・日清食品1社提供)で仁鶴さんは全国区のタレントさんになった。
テレビのCM出演は、大塚製薬の『ボンカレー』のCMが一番有名である。
時代劇『子連れ狼』の主人公による扮していた仁鶴さんがいよった『3分待つのだぞ』と言うフレーズが話題を呼んだ。
NHK総合テレビのお昼のお楽しみ『バラエティ生活笑百科』のMCは、1986年3月29日から務めていた。(最初のMCは、西川きよしさんだった)
しかし、2017年5月以降仁鶴さんはテレビ出演を見合わせた。
仁鶴さんが長年連れ添った奥さま(よしもと新喜劇の団員であった)が天に召されたことや愛弟子さんの訃報などで仁鶴さん自身がヒヘイしていたことがキインしていた。
2018年10月に開催された『京都国際映画祭』のオープニングイベントに出席が最後のお仕事であった。
8月20日の夕方頃に、NHK総合テレビで高校野球中継を見ていた時にニュース速報のテロップで仁鶴さんの訃報を聞いた時『関西のお笑い文化を築いた第一人者がまた減ってしまった…』と悲しんだ。
『バラエティ生活笑百科』は、2001年までレギュラー回答者だった桂南光(桂べかこ)師匠がMCを務めているけど、仁鶴さんがMCで南光師匠と上沼恵美子さんの激しいやり取りがあった頃が一番おもろかった…
そしてもうひとり、マンガ家のみなもと太郎先生も天に召された。
1947年京都市生まれ…
1979年に『風雲児たち』でデビューした。
主に、ギャグマンガが中心であった。
みなもと先生の作品でよく読んでいたのが『とんでも先生』であった。
学研の学習雑誌『4年の学習』の1982年1月~3月号・『5年の学習』の1982年4月~1983年3月号に連載されていた学園ギャグマンガであった。
みなもと先生の作品は、他にもたくさんあったけど、どんなんがあったかなぁ(うーん)
昭和の時代を盛りあげた第一人者がまた天に召されたニュースをきくたびに『また一つ、時代が終わった…』と思って悲しくなる。
ぼくにとって、『昭和』と言う時代はなんだったのか…
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