十一月の夜は寒い

沖 一

不幸な事に僕がスマホを手にしたのは高校生になってからだった。

 これは僕が中学三年生の十一月の事だ。もしかしたら十月か十二月かもしれないが、その夜がひもじくなる寒さだったのは確かだ。その日は夕方から塾があって夜に帰ってくる予定だったのだが、ちょうどその間に姉が出掛けて帰ってくる用事があったので僕は姉に鍵を渡した。姉は鍵をなくしていたからだ。鍵を渡した僕はいつも通り塾に行き、授業を受け、お腹も減って気力も使って疲れた身体で塾を出た。塾の後は友だちとコープで買い食いをするのが僕たちの習慣だった。懐に余裕がある時は魅力的に映る生チョコクレープを買ったりするものだがそんな事は稀で、その時の僕は普段選ぶように税込みで100円の麦チョコを買った。チープな菓子であるのは事実だが量はあるし、チョコの甘みと軽やかな食べ応えが好きで一粒一粒を摘んではパクパクと食べていた。ただそうして食べていると皆はお菓子をさっさと食べ切ってしまい、もう帰ろうかとなる。少しお菓子をつまんだだけでは腹も減ったままだし、何より寒いから僕も同じ考えだった。コープの前でだべっていた僕たちは別れて、互いの帰路につく。寒い寒いと思いながら麦チョコを摘み続けて上り坂を10分も歩けばマンションについた。ここで僕はエントランスからインターホンを鳴らしたのだが、待機中が続き、しまいには切れてしまった。家には母と姉がいるはずなのだが、誰も取ってくれなかったらしい。僕は一人が風呂に入って一人がうたた寝をしているのだろうかなどと考えた。そういう事もある。このままずっとエントランスにいるのも不審だろうと思い、僕は駐輪場から敷地内に入り込む事にした。セキュリティはザルで簡単に入り込めるのだ。インターホンが取られなかった事から5分と経たずエントランスから家の前に着いて、今度は呼び鈴を鳴らした。僕の耳にもピンポーンと響いたのが聞こえたが誰も扉を開けに来なかった。少し待ってから再び呼び鈴を鳴らした。少し嫌な予感がしていた。風呂に入っていてもシャワーを出しっ放しでもなければ音が聞こえるものなのだが、やはり反応はなかった。いい加減僕も分かった。二人とも寝ている。この時、凄まじく大きいため息を吐いたのを覚えている。それから立て続けに呼び鈴を鳴らし続けた。全く反応は無かった。何度も何度も何度も呼び鈴を鳴らしている様子は側から見ればイライラして意味のない事を繰り返す振る舞いに見えただろうが、そうやって手を機械的に動かし続けていると本当にイライラしてきた。

 ──僕はまじめに塾に行き、まじめに授業を受けて、腹を空かせて疲れて帰ってくるのに。姉に鍵を貸してあげたのは僕の優しさなのに。その報いがこれか?せめて鍵を開けておくとか、ポストの中に鍵を入れておくとかしてくれればいいのに。

 そこまで考えて僕はまだポストのなかを確かめていなかった事を思い出し、ポストの蓋を開けた。ほとんど縋るような速さだった。だが中に鍵は無く、明かりの点いていない廊下が見えただけだった。ここでいよいよ僕の堪忍袋の緒が切れた。助走をつけてから扉に蹴りを入れ、ドアノブをガチャガチャと揺らし、手が痛くなる事も厭わず扉を叩き、また蹴りを入れてを繰り返した。半狂乱ではあったが、僅かに残った理性が近隣住民に迷惑をかけては良くないと思い大声を上げる事はなかった。

「開けろよ!なぁ!?」

 ここまでしてるのだからもはや大声一つどうって事はないだろうと思った僕は瞬発的に叫んでいた。しかしそれでも返事は無く、とうとう疲れた僕はマンションの階段に座り込んだ。ここで僕はさっきまでの行いを省みた。今まで物にあたるような事はせずに生きてきたので、追い詰められた自分があんな振る舞いをするのかとすっかり消沈していた。手加減もなく扉を蹴って、迷惑も考えずに大声をあげるなんて。しかし何より頭を満たしていたのは「ここまでして起きないなんてマジか」と種類の分からない感想だった。動かしていた身体も冬の冷気で冷めてきた頃に僕は屋外で一晩を過ごす覚悟を決めた。後日この話を友だちにした時は「頼ってくれたらよかったのに」と言ってくれたし、僕が逆の立場でも同じ事を思い同じ事を言っただろうが、という考えでいっぱいだった。あんな振る舞いをした奴は人の温情に預かる資格は無いという自罰的な感情が僕を満たしていた。

 マンションの階段に座り、膝を抱えて寒さに耐えているのはひどく惨めだった。誰も頼るべきでないという自罰的な感情と誰かに寄り掛かりたいという寂しさがせめぎ合っていたが、心理的にも肉体的にも寄り掛かる相手がいないという事実が僕の理性よりも圧倒的な力で行動を起こさせないでいた。マンションの管理人はとっくに帰っていたし、公衆電話から警察に相談しても、あれだけして起きなかった以上は警察もお手上げだろう。何より下らない事で警察を呼んであげく何の意味も無かったなんて。ヒマを潰そうにも塾に行く予定しか無かった僕は本など持っておらず、手頃な物は何もなかった。不幸な事に僕がスマホを手にしたのは高校生になってからだった。

 時計も無いせいで時間が分からず、何度目か分からないほどにお腹を鳴らした時にふと何かを食べなければと思った。

 ──コープはもう閉まっているだろうが、20分ほど歩いた所にはセブンイレブンがある。カップ麺や肉まんを買えばいくらか身体も温まるだろう。イートインコーナーこそ無いが、外で食べても身体は温まるだろうし、何なら一晩中そうして色んな物を食べて暖を取りながら過ごしてもいいんじゃないか。散財にはなるがそれぐらい親に請求しても文句は言われないだろう。だって冬に家を締め出されてるんだから。

 穏やかに夜を過ごせる案に思わず頬が綻んだが、ここで再び立ちはだかったのはどうしようも無い事実だった。財布の中には200円ちょっとしかなかった。僕は思わず泣きそうになったが、既に『空腹』『疲労』『寒冷』が揃っている状況で『号泣』まで揃ってはいよいよひもじすぎるのでなんとか耐えた。『金欠』もこのバッドステータスの中に入るかと思ったが、どうせ今日締め出される事が無くても金欠であった事からこの並びに加えるのは相応しくないと判断した。そう考えるとさっきまでとまた別のひもじさが胸をチクリと刺したが、なんとか耐えてコンビニを目指して歩き出した。

 歩く様子はまさしくのろのろとしたものだったろう。下り坂なのに歩くのがひどく億劫だった。『空腹』『疲労』『寒冷』に『この後歩いた分の坂を登って戻る』が追加されたからだろう。コープの前に着くのでさえ、いつもより遥かに長い時間をかけていた。車道の向こう側にあるコープはやはり灯りが全て消えている。コンビニまでまだ遠いというのに、通り道にあっただけの閉店したコープになぜか分からないほど気力を奪われた。もはやここから歩いていた時の事はほとんど覚えていない。よく通る道を歩いたはずなのに、この時の僕が見ていた景色はまるで思い出せない。ただ、きっと思考を放棄した鈍感さのおかげで僕は寒さと疲労を耐え忍んでコンビニまでたどり着けたのだろう。ようやくセブンイレブンの発するコンビニの光を見た時に、明けない夜の終わりを見届けたような感慨に浸っていた事を覚えている。もっとも、夜がこれからである事もすぐに思い出すのだが。

 セブンイレブンに入った僕は迷いなくカップヌードルBIGを手に取った。カップ麺はおにぎりやパンよりも腹を膨らますコスパは良いし、スープまで飲めばちゃんと温まれる。だから迷いなく手に取ったのだが、その後に値札を見た時のやるせなさは今でも鮮やかに思い出せる。カップヌードルBIGは250円ぐらいしたのだ。財布の中には200円ちょっと。僕の頭をかけ巡ったのは100円で買った麦チョコの事だった。時を戻せるのなら、あの時に戻ってカップヌードルBIGの為に我慢しろと言いたい。真剣にそう考えたが、時を戻せるのなら寝る前に鍵をポストに入れろと姉に伝えた方がもっとマシな結果になっていただろう。そんな事をカップヌードルBIGを手にして固まったまま考えていた僕はさぞ怪しかったに違いない。幸いにも声を掛けられるような事態になる前に、僕は泣く泣くカップヌードルBIGを棚に戻して普通のカップヌードルを買った。来た道を帰り歩きながら食べるカップヌードルは本当にいつもの味がした。疲労は最高のスパイスとか言うけど嘘だ。本当に疲れた時、味はただ何のバイアスもなく情報として脳に届く。うまいとかまずいとかではなく、味を理解するだけ。汁も飲み干してその事実を体感した僕はコープの前のゴミ箱に割り箸と容器を捨てて、またこれから道を歩くのかと辟易した。スープでもう少し温まると思っていた身体はもうすでに冷めていた。ようやくマンションに戻ってきた頃、体温は出る前と同じぐらいに戻り、腹がある程度満たされた代わりに肉体は更なる疲労を抱えていた。

 また家の前に戻ろうかとエントランスを横切って駐輪場に向かう時に掛け時計がチラリと見えた。時刻は11時30分ごろだったと思う。確かに覚えているのは、体感ではとっくに1時を過ぎているだろうという希望がまだ日を越えていないという事実に打ちのめされるショックだ。いつだって人の心を打ちのめすのは幻ではなく事実だと、この日だけで嫌というほど思い知らされた僕は家の前の呼び鈴を一度だけ鳴らして、反応がない事を確認してから階段に座り込んで眠った。

 急に眠りから目覚めた。誰かに揺り起こされたのかと思ったが、そばには誰もいなかった。ならば朝が来たのかと思ったが外は相変わらずの夜の闇と静寂だった。呼び鈴を数度鳴らしたが、ここで運命的な救いがあったりはしなかった。時計を確認しようとエントランスへ向かう道すがら、僕は寒さのあまり目が覚めたのかと遅まきに理解した。エントランスの時計は2時30分を指していた。

 それから階段で再び眠っていた僕は同じように目を覚ました。やはりそばに誰かが居るわけでもなく、朝が来たわけでも無い。呼び鈴を鳴らしても反応は無い。時間を見れば3時。

 三度みたび僕は目を覚ました。階段で一人、未だ夜が明けていない事を知る。時間は3時30分。やはり呼び鈴に応答はない。

 これで四度目。階段は冷たいし、尻も痛い。目が覚めるのも当然だろう。覚める間隔に不思議な規則性を感じながら時計を確認すると、やはりというべきか4時。この頃になると起きた時に呼び鈴を鳴らすよりも先に時計を確認しに行っていた。疲れ切った脳みそで不思議だなぁと感心した後に家の前まで戻り、呼び鈴を押したが反応は無かったのでまた眠った。

 4時30分。起きた時には反射的にそう考えていた。時計を見に行けば、当たっていた。嬉しくもなんとも無かったが。その後で家の前に戻り呼び鈴を鳴らすと物音がした。もはやあくびをする程の無意味さで呼び鈴を鳴らしていた僕は反応がある事にひどく驚いて、それが喜ばしい事だと理解が追いつかなかった。やがて心配した顔をした姉が扉を開けた。後から思えばこの時に悪態を吐いても当然だったのかもしれないが、僕は寒さと尻の痛さがようやく終わるのだと気がついて、「やっと開いた」とだけ口から出てきた。

 それから「何か食べる?」や「お風呂入る?」などと声をかけられ、それが心配と親切から来る言葉だとは分かっていたが、身体が今最も必要としているもの達を一挙に満たせる手段を理解していた僕は「寝たい」とだけ残して、布団に潜り込んで寝た。その日は学校を休んで昼過ぎまでずっと寝ていた。親が学校になんて説明したかは今も知らない。

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