第89話 厄災
これは不味いな。
相手を目視した瞬間、本能が私に悟らせる。
今の私では絶対に勝てない事。
そして、相手が此方を逃がすつもりなど毛頭ないだろう事を。
「何だあれ?魔物か?」
「影?でしょうか」
どうやら仲間達も気づいた様だ。
神殿の前に佇むアレに。
「……」
前方に漂う影の様な者を凝視する。
それからは気配を一切感じず、そもそもそこに本当に存在しているのかも怪しいほど存在が希薄だ。
その為発見が遅れた。
もう少し早く気づけていれば……いや、無駄か。
恐らく相手はずっと以前から、下手をすればこの50層に足を踏み入れた時点で此方に気づいていた可能性すらある。
相手との距離は約200メートル。
此方が逃げるそぶりを少しでも見せれば、間違いなく襲い掛かって来るだろう。
「ティーエ。ドラゴンリングを私にくれ」
返すのは不可能だ。
だからくれと告げた。
その意図に気づいたのか、ティーエが深刻な表情で訪ねてくる。
「それほど危険な魔物なのですか?」
「あれは厄災だ」
「「 厄災!! 」」
ティーエへの返答に、驚いた様な複数の声が重なる。
「お前達が逃げる時間を少しでも稼ぐ。私はダメだろうが、お前たちだけでも生き延びろ」
「そんな……」
果たしてどれ程の時間が稼げるだろうか?
ドラゴンリングを装備したとして、5分稼げれば上出来に違いない。
「は?何言ってんだ?相手はたったレベル200だぞ。厄災だろうがなんだろうが、彩音の敵じゃねーだろ」
たかしの言う通り、レベルだけ見れば相手は200程度でしかない。
数字の上だけなら。私が負ける要素はないと言える。
だが奴と。
厄災と生物では、レベル1つ当たりの重みがまるで違うのだ。
数字だけでは測れない強さ。
それを感じ取った私の本能が、奴と戦えば死ぬと告げている。
「ふーむ、とりあえずここを離れてみてはどうだろう?ひょっとしたらこっちに気づいてないかもしれないし?」
「残念だが無理だ。殺気自体は感じないが、間違いなくこちらには気づいている。殺気を感じないのは、俺達をおもちゃぐらいにしか思っていないからだろう」
パーマソーの案をレインが否定する。
勘の鋭い男だけあって、彼ももあれの理不尽とも呼べる脅威を肌で感じているのだろう。
後はリン位か。
リンの方を見ると、顔を真っ青にしてガタガタ震えていた。
戦士として、と言うよりは、魔物としての本能が彼女に忌避感を与えているに違いない。
「お、おい。リン大丈夫か」
私の視線でリンの異変に気づいたのか、たかしが彼女に声をかけた。
「リンちゃん大丈夫?」
「ご、ごめんなさい。私」
フラムがリンの肩に手をかけ、心配気に声をかける。
小さな声で大丈夫ですと気丈に返すが、極度の緊張と恐怖で恐らく立っているのがやっとだろう。
「たかし、リンを抱えて逃げてやれ」
「……わかった。けどいいのか?俺は本気でお前を見捨てて逃げるぜ」
「かまわんさ。この世界に来た時点で覚悟は決めてある」
表情は崩さずに答える。
嘘だ。
死にたくなんてない。
私にはこの世界で成すべき目的がある。
それを果たさずに散るなど……
たかしがいなければ、全力で逃げるという選択肢もあった。
わずかな可能性にかけ、他の仲間を犠牲にしてでも逃げ出す。
そんな最低の選択肢が。
だがたかしがいる以上、その選択はありえない。
私の為に、生まれたばかりの彼を犠牲にする様な真似は絶対にできないからだ。
「私が仕掛けたら逃げろ。いいな」
「彩音さん……私……」
「湿っぽいのは無しだ」
フラムが今にも泣きだしそうな顔で言葉を続けようとしたが、遮る。
湿っぽいのが苦手なのもあるが、何より、私が時間稼ぎをするのはあくまでもたかしを生かすためでしかないからだ。
そんな私には、彼らとの別れを惜しむ資格などないだろう。
「彩音さん、可能ならば生き延びてください」
「分かってる」
ティーエからドラゴンリングを受け取り、指にはめる。
その途端鼓動が大きく跳ね、体から力が溢れて来た。
良い装備だ。
これと同等の物を、先程のドラゴン達が2-3個落としてくれていればあるいは……
いや、たられば話に意味はないな。
大きく息を吸い、そして吐き出す。
深呼吸で心を落ち着かせ、雑念を捨て覚悟を決める。
「
スキルを発動させると、煮え滾るマグマの如き熱き力が丹田の辺りから噴き出して来た。
かつてはこの力を全く制御できず、ただ放出するしかなかった。
だが今は違う。
丹田から発生する莫大な気を外部に放出するのではなく、指向性を持たせ体内に循環させる事で、瞬間的に気を使い果たす事無く戦う事が出来る様になっていた。
それにより、基礎戦闘能力の引き上げにも成功している。
とは言え、それでも目の前の相手には遥かに届かないだろうが。
影が揺らめく。
異変に反応し、その体から何本もの影が、まるで触手の様に此方へと高速で迫って来る。
「行け!」
そう叫び、私は前に出た。
此方へ伸びてきている触手の数は8本。
1人1本あれば十分と判断したのだろう。
つまり奴からすれば、他のメンバーも私も大差ないと言う事だ。
「舐めるな!
左手に気を集中し拳を突き出す。
私の拳から放たれる、暴力そのものと言える光が視界を覆い尽くす。
全てを消し飛ばす私の最強の奥義。
勿論、この一撃は全力ではない。
時間稼ぎをするのに、いきなりガス欠になってしまっては話にならないからな。
光が収まった後には、子揺るぎもしない影が姿を現した。
私の一撃は地面を大きく抉り取っている。
影の直前までの大地を。
その様子から、完全に防がれた事が分かる。
全力ではなかったとはいえ、ダメージは無しか……
触手は何とか吹き飛ばせたが。
恐らく威力をもう少しでも絞っていたら、触手すら吹き飛ばせなかっただろう。
影から触手が再び伸びる。
今度も8本。
相手が警戒して様子を見てくれる事を期待したが、見事に当てが外れてしまう。
まあ、本体が無傷では仕方ない事ではあるが。
触手を叩き落すべく、私は再び
そして今度は視界が戻るよりも早く、迷わず相手に突っ込んだ。
2連打したおかげで息が上がるが、構まってなどいられない。
抉れた地面を強くけり、駆ける。
もはやこれ以上
次に8本の触手を出されたら、防ぎきれないだろう。
間合いを詰めて接近戦に持ち込み、相手の意識をこちらに集中させなければ……
後10メートル!
そう思った瞬間体が跳ね上がり、腹部に強烈な痛みが走った。
痛む腹部を片手で押さえながら下を見る。
触手だ。
影の触手が地面の下から突き出ていた。
1秒でも長く時間を稼がなければならないのに、私は何をやっているんだ!?
見えない場所からの攻撃ではあるが、普段の私なら対処できた筈だった。
だが結果はこの様だ。
あれ程の力の持ち主が、小手先の技を弄するはずがないと勝手に思い込んでいたせいで。
自分の愚かさが恨めしい。
悔しさに歯ぎしりする。
更に二本の触手が下方から私に迫る。
腹部の痛みと、突き上げられた体勢で回避は無理と判断し、両手でガードする。
ボキリと鈍い音が響き、両腕に激痛が走った。
次いであばらがへし折れ、私の体は更に高く跳ね上げられる。
辛うじて肺は損傷を免れた様だが、この状態ではもう真面に戦えない。
一分も持たなかった。
……すまない、たかし。
「あやねえええっぇぇぇぇ!!」
幻聴か?
そう思った次の瞬間、落下し始めた私の体が抱き止められる。
「たか……し。なんで……」
「このまま飛んで逃げるぞ!!」
抱き抱えられたまま足元を見ると、ドラゴンの上だった。
私を助けるために引き返してくれたのか……本当に馬鹿な奴だ。
「他の皆は……」
「何とかするだろ!きっと!」
「リーダーの癖に、無責任すぎるだろ……」
「うっせぇ!」
本当に困った奴だ。
困った奴だけど……ありがとう。
「何だよ?泣いてんのか?」
「き、傷が痛むだけだ……」
「そうか?だったらさっさとここから逃げ出して手当てしないとな」
逃げ切れたなら、どんなに素晴らしい事か。
だがきっと――
「むぅぅだぁあだぁねぇ……」
まるで、獣が無理やり人間の言葉をしゃべっているかの様な声。
背後から突如聞こえた、そんな不気味な声にたかしが振り返る。
――そこには奴がいた。
やはり、逃げる事は敵わない……
「彩音。すまん」
「助けに来てくれただけで、十分だ。嬉しかったよ」
「いぃたあぁだぁきいまぅ」
次の瞬間、影が爆発したように膨らみ、私達を飲み込んだ。
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