六十 栄
その日、浅羽の本家では分家が勢揃いし、かつてない規模の大宴会が催された。
広い邸内のあちこちに、早々に酔い潰れた者達が死屍累々と倒れ伏す。
かたや呑兵衛どもは、肩を並べて乾杯を繰り返し、歌い踊って乱痴気騒ぎ。
月が良く映える時刻となっても止む気配なく、いつ果てるとも知れぬ饗宴が続いていた。
何しろ西の鬼との戦の最中、ほぼ休みなく前線へ駆り出されていた浅羽兼続へ、突如として熊野への異動が下ったのだ。
さらには一介の分隊長から、一足飛びに少将への昇格という、破格の付録付き。
異例とも言える大抜擢に、周囲はもちろん、本人が最も戸惑っていた。
これには父、浅羽兼成も大いに喜び、普段神経質を隠そうともしない厳格な頬を緩め、次男の出世を素直に褒めてみせた。
そして盛大に宴を開き、父自らが子へ酌をするほどの無礼講を晒す運びとなったのだ。
七年前、左腕と羽団扇を
用があれば部下や芦屋道子を通じて報せが来たが、軍務に関わる内容ばかりで、私情を一切挟まぬ、事務的な文面が綴られるのみ。
父はもはや己に失望し、見放されたものと思い、兼続は言われるままに淡々と指令をこなすだけの人形と成り果てていた。
そこへきて、今回の栄転である。
兼成は元々高い
幼少の頃より、病弱な兄に代わり、一族の、いや、父の悲願を果たさんがためしごきにしごかれ、ついぞ親らしい言葉一つかけられた覚えのない兼続にとって、それこそ大事変であったと言える。
栄光への道が拓けたと、酒を浴びるように飲み、豪放な笑い声をあげる父を見るのは、自分はおろか、身内の誰もが初めてなのではないか。
それだけ兼成の浮かれようは凄まじく、大願の強さのほどを思わせた。
「くく。鹿島の次男坊が無様を晒したお陰で、ようやく風向きが巡ってきたわい。式典にて、勅を拝命した際の貞常の面を見たか。苦虫を噛み潰すとは、まさにあれよな。額に入れて飾っておきたい出来であったわ」
杯を空にし、上機嫌で兼続の肩を叩く兼成は、積年の鬱憤を晴らすが如くに他家への悪態をぶちまけた。
「香取の爺は、相も変わらず何を思うておるか読めなんだが。今だ家督で揉めておる体たらく。いずれ自滅するやも知れぬ。この機を逃さねば、すぐにも中将、いやさ、香取を蹴落とし大将を戴く事も夢ではなかろう。かはははは!」
「兼成様……少々飲み過ぎではございませぬか」
傍に控えていた
「なに、構うな。待ちに待った子の晴れの日ぞ。これほど美味い酒があろうものか」
兼成は聞く耳持たず、よろめきながら立ち上がり、杯を高く突き上げる。
「よいか皆の衆。今宵、この屋敷にある酒全てを空にせよ。兵にも余さず振る舞い、とくと英気を養うよう計らえい!」
半身を宗源に支えられるようにしながら宣言し、辺りから歓声を湧かせると、その声に応えて己の杯を干してみせた。
直後、腰が砕けたようにどかりと座り込むと、再び兼続へ向き直る。
「さあ、お前も遠慮するな。今宵の主役が飲まねばなんとする。此度の帝のご指名は、お前がこれまで積み重ねた武功あってのものぞ。もっと胸を張り、存分に羽目を外せ。なんなら、ほれ、わしが注いでやろうぞ」
「父上……もったいなきお言葉です」
杯に酒を受け止めながら、兼続は頭を下げた。
ふと熱くなった目頭を隠すように。
今まで態度こそ冷たくあったが、自分の行動にしかと目を向けていてくれたのだと、言葉越しに感じ入ったのだ。
思い返せば、芦屋道子は、父の願いで己の世話を焼いていると言っていた。あれは父なりの気遣いだったのか、と兼続はようやく合点がなった。
親子はしばし杯を交わすと、兼成は分家の者達に招かれ、腰を浮かせた。
去り際、兼成は赤ら顔を引き締めると、兼続の耳元にて囁いた。
「兼続よ。ここからが肝要ぞ。帝都での些事はわしが引き受ける。お前は戦場にて存分に武を振るい、浅羽の威を示せ。父の期待を裏切ってくれるなよ」
「はっ。少将の名に恥じぬ働きをご覧に入れます」
畏まって返答すると、兼成は満足げに頷き、よたよたと席を移っていった。
「いやはや。兼成様が、あれ程饒舌になるまで酔われるとは。まことにもって珍しい。この有様では、明日は酔い覚ましを多めに用意せねばなりませぬな」
静かに控えていた宗源が、苦笑してみせる。
「それだけ、父上にとっては大事なのだろう」
兼続は徳利を手に取ると、酒を満たした杯を宗源へ押し付けた。
「鹿島が一角、中将貞頼殿。困った部分はあれど、武人としては尊敬に値した。国にとって、かなりの損失には違いない」
手元の杯をちびりと舐めつつ、兼続は正直な気持ちを吐露した。
「その穴を、おれが埋められるかどうか。これから試されるのだな」
杯を持つ手にじわりと汗が滲む。
半ば漁夫の利のようにして賜った地位である。己にその務めがしかと果たせるのか。
自分で口にして、背筋をぞくりと武者震いが走るのを兼続は覚えた。
父に期待をかけられた事で、ようやく自分の置かれた立場の重みを実感したのだ。
「若ならば、見事やり遂げられると信じておりますぞ」
宗源は恭しく受け取った杯を、一気に干して恵比須顔を見せた。
「ふ。少将となっても若呼ばわりか」
「ええ。私にとっては、いつまでも若でございます。これまで通り、変わらずお仕え致しますとも」
宗源の言葉は、裏を返せば少将となった兼続へ、手の平を返したようにすり寄って来る者どもの存在を暗喩していた。
扱う兵の規模が増えた分、信頼に値する者の選別にも気を遣わねばならぬ。
その点で、宗源のような馴染みの深い者達は貴重だった。
部隊の再編をしつつ、例祭に向けて鹿島氏より祭事の引継ぎも行わねばならない。やるべき事は山積みである。
しかし、と兼続は思考を一旦脇に置き、開け放った障子の向こうへ浮かぶ月を眺めやる。
こうしてゆるりと空を見上げるなど、しばらくなかった事だ。
今日くらいは頭を空にして、酔いに身を任せるのも良いだろう。
そんな事を想いながら、ぐびりとあおった酒の味は、これまでで一等格別に感じられた。
その日、兼続の異形の左腕は、一度も疼く事はなかった。
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