第226話 魔王と猫

 ナマケモノという動物は、三つ指より二本指の方が凶暴らしい。

 指が少ない方が凶暴になるのだろうか。

 そんな余計な事を考える男に、一本指のナマケモノが襲い掛かる。

 見た目に反して、かなり素早い動きで魔物が迫る。

 見た目は魔物か獣だが、言葉も話す、自称魔王なら魔族だろうか。

 想定以上の速さに、男は刀を抜く間もなかった。

 力任せに振り下ろされる鉤爪を、革鎧の肩当てで逸らす。

 軌道がズレた鉤爪と交差して、男の左が突き上げられる。

 掌底が魔王の小さな顎を、鋭く突き上げた。

 首が太い所為か脳が無いのか、魔王は掌底に耐えた。

 まともに受けるのを避けた男の方が、爪の勢いにバランスを崩す。

「ちっ、なんて力だ」

「やるではないかニンゲン」

 互いに相手の力を見誤っていたようだ。


 左の鉤爪が横に振られる。

 男は上体を反らせながら、左の前蹴りを放つ。

 魔王の腹を蹴り、相手の勢いを殺しつつ、蹴った勢いで後ろに跳んだ。

 黒い鉤爪が、男の腹をかすめていく。

 男の蹴りを受け止めた魔王が、怯みもせず前に出る。

 鉤爪が掠めた腹から、鮮血を振り撒く男へ、追撃の爪が迫る。

 体を後ろに反らせたまま、体勢を整える間もなく鉤爪が振り下ろされる。

 男の左足が地を蹴り、むりやり体を捻る。

 右の回し蹴りが魔王の腕を打ち、その爪の軌道を逸らす。

 さらに男の身体が回る。

 その場でさらに半回転して、左の後ろ回し蹴りが魔王の顔を突き上げる。

 二段回し蹴りで攻撃を躱し、男が距離を取る。

「ふはははっ、楽しませてくれるわ」

 体に対して小さな獣の顔が醜く歪む。

 諦めずに抵抗する男を嗤っているようだ。


「ワタは出てないか……それでも、不味いな」

 男は爪が掠めた腹を触り、中身が出ていない事を確認する。

 格闘の強さだけで、魔王を自称するとも思えない。

 まだ人間一人が相手だと、遊んでいるようだ。

 本気を出す前に、油断している内に倒すしかない。

 魔法だのなんだのを、使われたら死ぬだろう。

 このままでも、いつまでも躱し続ける事は難しい。

 男はそう考え、一撃で仕留めると、心を決める。

「ん~? なんだぁ、それは。諦めて神にでも祈る気か?」

 封印が解かれ、久しぶりの運動なのだろう。

 もう少し遊びたい。とでも言いたげな魔王だった。

 男は両手を頭の上にあげた奇妙な格好で立っていた。

「楽しみたいのなら、かかってこいよ」

「剣を抜かんのか……まぁ、抜いても効かぬがな」

 素手の男が大上段に構える。

 その手に剣が見えそうな程の殺気を纏う。

 その覚悟を感じ取ったのか、魔王も口をつぐみ男をにらむ。


 左足を軽く引き、やや前方へ体重をかける男。

「怖いなら素直に逃げな。今なら見逃してやるよ」

「ふむ……いいだろう。遊びに付き合ってやろう」

 男の安い挑発に乗るナマケモノ。

 一つ、息を吐き、魔王が突進する。

 黒く大きな鉤爪が、両側から男に迫る。


「ふぅ……リトっ! おおぅ!」

 命を刈り取る鉤爪が迫る中、ギリギリまで動かず引き付けた男が叫ぶ。

「あいっ!」

 大上段に構えた両手に、野太刀が握られる。

 手渡したリトが、滑るように後ろへ駆ける。

 抜刀された野太刀が、裂帛の気合と共に振り下ろされた。


「みぎゅ……ぷぁっ」

 魔王の口から、奇妙な音が漏れる。

 男の脇腹に触れたところで鉤爪が止まった。

 真向から頭をかち割り、胸まで切り裂いた野太刀が魔王を圧し潰す。

 男に伸びた鉤爪が力なく落ちた。

「ぶっはぁ~……くはぁ、はぁ~。まいった。やばかったな」

 大きく息を吐き、男が膝を着く。


「は、はぁ~? 倒した……鉤爪の悪魔を?」

 猫娘アルバも、力が抜けてしゃがみ込む。

「いやぁ、まさかこちらを襲ってくるとは。失敗でした」

「はぁ? 何してくれてるニャ。ずっと守って来た封印が……」

「いやいや、すみませんねぇ。もう守らなくても大丈夫そうですよ」

「……ニャ……今まで、いったい……」

 親の代から、何十年守ってきたのだろうか。

 人の手で、しかも一人の剣士が倒せるのなら、今まで何をしていたのか。

 そんな想いが駆け巡り、アルバは放心していた。


 法国の迷宮で働いた後、両親の後を継ぎ、ここで封印を守って来た。

 石像の上に建てられた小屋に一人、悪魔の封印を守ってきた。

「ま、まぁ、解放されたと、そう思う事にするニャ」

 突然すぎて、事態を受け入れられないようだ。

「もうすぐ、ここらは戦場になりますから、離れる事をお勧めしますよ」

「連合軍が攻めて来てるとか聞いたニャ。本当だったのねニャ」

 男の裂けた腹の治療を済ませる間に、なんとか立ち直ったアルバだった。


「うん。綺麗に縫えた」

 男の傷を縫い終わったリトが満足気に頷く。

「おお、綺麗に縫えたなぁ。ありがとなリト」

「えへへ~。縫うの得意。いくらでもリトにおまかせ」

「そんなに切り刻まれたくはないけどな」

 頭を撫でられ、蕩けるような笑顔で喜ぶリトだった。

「アンタと一人でやりあう気もないしニャ。何処かに隠れてる事にするよ」

 アルバは男と敵対せず、身を隠すと言って去って行った。

「なかなか都合良くはいかないな」

 ぼやきながら男が立ち上がる。

 神殿を目指し、リトを連れて歩き出す。


 街の守備隊と吸血鬼、聖女二人に自称魔王。

 倒した相手は、一人の戦果としては充分、ではあった。

 しかし、どれもが密かに始末され、予定された騒ぎにはならなかった。

 中でも聖女は自分の功だけを求め、秘密裏に動いた所為で誰にも知られなかった。

 後は東西の戦場に期待して、少しでも楽に忍び込める事を祈る男だった。

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