第217話 決意と幻想
人はただのエサでしかない。
そんな驕りからか、余裕からか、吸血鬼は身構えもしない。
「田舎の教会で、
たまたま旅人が重なった今夜を最後に、どこかへ身を移すつもりだったと、少し楽しそうに語る吸血鬼。
長い事隠れて暮らしていたので、色々と溜まっているのだろうか。
「温厚な神父が突然人を殺し始めたと、シスターは心配していましたよ。それでも止める事も出来ず、教会本部へ報告する勇気もなく。こっそりと旅人を追い返すだけだったようです。いやぁ、久しぶりの御馳走だったのですよ」
浮かれて、一人はしゃいで勝手に話す吸血鬼。
そんな油断が、今までに味わった事もない苦痛を生む。
両手を広げて、広間の高い天井を見上げ、高笑いする吸血鬼の顔が歪む。
過去に感じた事もないほどの苦痛に歪む。
「ぐぅぎゃああぁああっ!」
男から目を逸らした一瞬、その一瞬で男は、懐深く飛び込んでいた。
太ももを切り裂き、脇腹へ。
頭が下がったところで、首筋を深く切り裂いて駆け抜ける。
後ろに、腰に差していた、小林からの贈り物。
肉体を持たない亡霊すら、切り裂くナイフが握られていた。
吸血鬼の肉体は既に死んでいて、痛みもない筈だった。
幻覚なのか、何故か焼けるような痛みを与える、魔法のナイフだった。
「ちっ、やっぱタフだな」
「ぬぅがぁあああっ! きっさまぁ!」
吸血鬼は知らなかった。
人の持つ武器如きでは傷つかないと、自負していた肉体を切り裂く武器を。
単純な力だけでも、大人と子供以上に差があるのに、無駄に抵抗する人間を。
小さなナイフの傷は治りが遅かった。
傷ついたとしても、トロール以上の回復力で、すぐに治癒する筈だった。
そんな無敵の身体から、血が溢れこぼれていく。
深く抉られた傷が、中々塞がらない。
なんだこれは、なんだこれは、どうなっているんだ。
吸血鬼の頭の中は、何故だ何故だと混乱していた。
それでも闘争本能は失わない。
とどめを刺そうと飛び込む男を、混乱している筈の吸血鬼が迎え撃つ。
男の頭を鷲掴み握りつぶそうと、右腕が突き出される。
弾丸のような勢いで伸びる吸血鬼の手を、首を傾げて男は
鋭い爪が男の頬を切り裂いても、深く踏み込んだ男は止まらない。
突き出された右腕の外側から、男の左こぶしが巻き込むように側頭部を捉える。
踏み込んだ、互いの勢いの全てを、その
クロスカウンターが、吸血鬼の動きを一瞬止めた。
止まった顎へ、トドメのアッパーストレートが突き上げる。
いや、拳ではなく、右手にはナイフが握られている。
顎ではなく、狙いは首だった。
ざっくりと、首を斬り落とす勢いで深く、大きく切り裂いた。
傾いた頭の重みで、傷口が裂けて広がっていく。
「ぬぅぅあああっ!」
それでも不死の王、吸血鬼は倒れない。
もの凄い勢いで傷口が塞がっていく。
その魔力と怒りが、ナイフの力を凌駕していた。
吸血鬼が、力任せに腕を振る。
技も何もないが、人を簡単に貫く程の
それを涼しい顔で躱した、男のナイフが、吸血鬼を切り裂く。
人であれば一撃で動きが止まる、急所ばかりを狙ってナイフが振られる。
だが、男にも余裕はなかった。
常人であれば躱せない、人の限界を超える攻撃。
死の恐怖に体が竦み、本来の動きは出来ない。
確実に命を刈り取る、目にもとまらぬ一撃。
男はそれを、躱せない筈の攻撃を躱し、さらに反撃すら当てていく。
「ぬぅぅ……何故だっ……何故だぁ!」
苛立ち、雑になる攻撃は男を捉えられない。
それが、さらに吸血鬼を苛立たせる。
男に攻撃する度に、確実に反撃を喰らい、傷が増えていく。
魔力も削られていったのか、傷の治りが遅くなっていた。
「煩わしいぞニンゲンがぁ! 不死の王をなめるなぁ!」
それに気付いた吸血鬼が吠える。
見えない筈の攻撃を躱す男。
人の身では、反射ですら間に合わない筈の攻撃だった。
生死の境を潜り抜けてきた経験が、敵の動きを予測する。
我を忘れた単調な攻撃を読み切り、攻撃よりも先に避け始める。
未来予知さながらの先読みで、無理矢理かわしていた。
押し寄せる死の恐怖も、無理矢理抑え込む。
静かな殺意が、頭の中全てを黒く、黒く染めきっていた。
殺意で恐怖を塗り込め、抑え込み、
それでも、全て綺麗に完全に躱しきれるものでもない。
深くはなくても、吸血鬼の攻撃は、かすってはいた。
その爪は男の皮膚を切り裂き、打撃は骨を軋ませる。
だが男は怯みもせず、感情も見せず確実に、敵に傷を増やしていく。
何らかの魔法の品、男の持つナイフの所為だ。
吸血鬼は信じられない今の状況を、ナイフの所為だと思い込んでいた。
その邪魔なナイフを、どうにかしたかった。
それに、足掻いていたが、やはり男は限界が近いようだ。
吸血鬼の目には、そう見えた。
相変わらず攻撃は当たらないが、男はじりじりと壁際へ追い詰められていた。
男のすぐ後ろには煉瓦の壁が迫っていた。
外へ続く扉は後ろにない。
ついに追い詰めたと、口元が緩む吸血鬼だった。
男はぶつぶつと何か、小さなつぶやきをもらす。
「はっーはっはぁ! 神への祈りというやつか。丁度、教会だしなぁ」
男が諦め、神への祈りを口にしていると、奴はそう思い込んでいた。
余裕が出来て気付いたが、一緒に居た小さな奴隷の姿も見えない。
男の劣勢に恐怖し、一人逃げ出したのだろう。
もう逃げ場もない。
すぐに仕留められる。
この一撃で……次の一撃で。
腕を捥いで足も引きちぎり、泣きわめく頭を握りつぶしてやろう。
そんな想いを浮かべ、さらに頬も緩んでいく。
今まで、抗える者も居なかった。
ギリギリの戦いを、経験した事もなかった。
それがヒトとの違い、男との決定的な違い。
奴隷は恐怖から逃げ出し、どこかで震えているのだろう。
男は諦め、泣きわめきながら死んでいくだろう。
吸血鬼の甘ったるい思考は、そんな幻想を見ていた。
しかし、それはありえない希望、夢物語だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます