第161話 来訪者
風呂でリトの頭を洗う男。
頭皮をワシワシと洗って流す。
コンディショナーを両手に広げ、毛先から馴染ませ髪全体の表面をコーティングすると、すぐに洗い流す。
リトの髪をサラサラつやつやに保つ為、作ったコンディショナーだった。
レモンからクエン酸を作り、でんぷんからキサンタンガムを作り、木の実の油脂を加水分解して濃縮、蒸留、精製したC₃H₈O₃グリセロール、天然グリセリンにオイルとワックスを混ぜて作ったお手製コンディショナーだ。
たっぷりと湯を張った湯船で、ゆっくりと温まった二人が風呂を出ると、復帰した羊の奴隷レイネが待っていた。
「お客様がお待ちですが、お会いになられますか?」
もしかしなくとも、此処に来る客はエミールくらいだろう。
入浴中だからと、王国宰相の貴族を待たせておいて、会うかどうか訊ねる奴隷。
「お待たせしました。すみませんね、風呂入っていました」
男が客間に顔を出すと、ゆるく顔のくずれたエミールが、フォークを咥えたまま身悶えしていた。
気持ち悪いものを見てしまった男が、部屋の入口で固まっていると、気付いたエミールが蕩けた笑顔で挨拶する。
「お邪魔してます。今日のケーキもたまりませんねぇ」
エミールは男の手作り菓子に夢中になっていた。
「あぁ、カヌレ・ド……カヌレですか」
こちらにボルドーは、なかった事を思い出した。
「カヌレというのですか。これは特別気に入りました。うちの料理人にも教えて欲しいくらいです。作れるでしょうか?」
少し呆れ気味な男が、溜息交じりに部屋へ入り、エミールの向かいに座る。
「別に難しいものではありませんよ。混ぜて
「それは楽しみです。今度うちに来て伝授して下さい」
此処まで来た目的も忘れ、エミールはカヌレの虜になっていた。
また忘れて帰りそうなエミールを、内心ニヤニヤしながら黙って見ている男。
そこへ珍しく、さらに来客があった。
「いらっしゃいませ。先日はお世話になりました。あいにくと主は接客中なので、こちらでカヌレでもお召し上がりになって、しばしお待ちください」
出迎えたレイネが紅茶とケーキを出した。
エルザに接客を任せると、レイネは男へ報告に向かう。
「シリルかな?」
男がレイネに訊ねる。
中へ招き入れる相手なら、エミールかマルコかリトの姪しかいない。
「はい。お連れの方とお見えです」
「連れ? まぁ、こちらに通して下さい。構いませんよねエミール殿」
リトの姪だと、エミールも知っているので、彼も否やはない。
エミールの用件は、余り大事な秘密でもなさそうだ。
リトは誰が来たのか気付いたようで、男の隣で耳をピクピクさせている。
「お連れしました」
「ようこそ……」
レイネの声に振り向いた男が、シリルの連れを見て固まった。
ぷるぷるしながら言葉も出ない男。
「リズ、久しぶり」
動けない男の隣で、リトが片手をあげて挨拶する。
「……リト……?」
ショックから立ち直れない男が、誰なのか訊ねたそうにリトを見る。
「リズはリトの妹。シリルの母。リズ、この人がマスター」
戸口に立つリトの妹は、鼻をヒクヒクさせながら、右足で激しく床を叩く。
怒っているのだろうか、男にはその表情から、相手の感情が読めなかった。
背中に垂れた長い耳。
全身を包むふわふわで真っ白な体毛。
小さな手と大きな足。
後ろ足で立ち上がったウサギがそこに居た。
エルザのような、人要素の皆無な獣人? だった。
しかし、男よりも頭一つ大きい。
嘗てない程の衝撃が、男の全身を駆け巡る。
でっかいウサギを前に、男は感動の余り、身動きが取れなくなっていた。
カワイイ動物型の獣人ならば、男を暗殺できるかもしれない。
「連絡するの忘れてた。まぁまぁ、お肉でも食べなさい」
喉も兎のままのようで、喋れないリズだが、シリルとリトは彼女と、意思疎通が出来るようで、普通に喋っていた。
話せはしないが、人の言葉は理解できるようだ。
脳が死んだまま動き出し、フラフラとリズに近寄った男が、そのまま巨大兎を抱きしめ、ふかふかの胸元へ顔を
驚き固まる
「いやぁ、貴方は恩人ですが、母は一応人妻なので……」
シリルが脇で苦笑い? しながら、困ったように声を掛ける。
後ろで声も出せない程、笑い転げるエミールが居た。
「いや、失礼しました。先日はウチの奴隷が世話になりました」
興奮から醒め、落ち着いた男が二人を部屋へ通して、リトを落ち着かせてから兎に詫びて、レイネとエルザの礼を伝える。
貴族のボンボンに絡まれ、倒れていた二人を、通りかかったシリルが、連れ帰ってくれたのだった。
「いえいえ、とんでもない。少しでも恩返しの一つだと思ってください」
以前、貴族の令嬢と護衛のシリルが、賊に襲われた。
そこに男が巻き込まれた。その一件を、シリルは恩に感じていた。
男は見捨てる気だったが……。
シリルからリトの話を聞き、行方不明だった姉が心配で、会いにきた妹のリズだったのだが、大きなウサギに興奮してしまった、男の所為で血を見る寸前だった。
「笑いすぎですよ。こんなフワフワモコモコな兎がいたら、仕方のない事です」
まだ笑いが止まらないエミールを、男が睨む。
「うさぎならリトが居るのに」
まだリトは少し怒っているようだ。
エミールの用件が、飛んで消える程の衝撃。巨大兎の来訪だった。
果たして依頼を思い出し、男へ伝える事は出来るのだろうか。
笑い転げる侯爵に、威厳も何もなかった。
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