第83話 雪上戦

「くそっ! 俺を巻き込むなよ」

 冗談じゃない。

 あの商会の爺が連れてた護衛だって、全滅したじゃないか。

 あんな化物に人が敵う訳ないんだ。

 みんな殺されちまう。

 アイツらが喰われてる間に、俺だけでも逃げるんだ。

「なんだ! 今の音は……」

 なんてこった。壁を突き破って入って来やがった。

 折角、皆を見捨てて一人だけ逃げようと思ったのに。

 これじゃあ、逃げ場のない俺だけが殺されるじゃないか。

「ちくしょう……」

 レアメタルを騙し取ろうなんて、考えるんじゃなかった。

 イリーナめ。体だけの頭のゆるいバカ女め。

 囮にもならないのかよ。

「あぁ……くそっ……来るな。こっちに来るなよ」


 オリビエ達は奥の倉庫に向かうが、その扉をエフゲニアが閉める。

「エフゲニア!」

 オリビエが叫ぶが、中から鍵を掛け、立てこもってしまった。

 アントンの逃げ込んだ家からも悲鳴が聞こえる。

 その扉がはじけ飛び、血にまみれた羊顔の、雪男がゆっくり出て来る。

「仕方ないか」

 男は深い雪の中を駆け、雪男に襲い掛かった。


 振りかぶった雪男の右のこぶしが、駆け寄る男の顔へ打ち下ろされる。

 左足を前に踏み出し、左に体を傾けて拳を躱す。

 アフロのような毛が、チリチリと男の頬を打っていく。

 倒れかけるような体勢から前に出した左足を踏ん張り、左拳を斜めに突き上げる。

 脇腹に突き刺さり悶絶する筈が、モコモコとした毛がふんわりと受け止める。

 この足場では、ほぼ手打ちで威力が乗らない。

 力が尋常じゃない、羊の腕のようにはいかなかった。

 上がった頭へ、羊の左拳が打ち下ろされる。

 左に体を捻りながら、頭を沈めて拳を躱す。

 男の右足が強く地を蹴り飛び上がると、腰を捻り胴を回す。

 羊の顔を男の左踵かかとが襲う。

 人ならば反応できないタイミングの、胴回し回転蹴りにも羊は反応する。

 素早く後ろに跳び退き、男の蹴りを躱した。

「これでも躱すのか。化物め」

「キョッ……メェエエエ゛エ゛エエエ!」

 羊の雪男が怒りの叫びをあげる。

 男の蹴りが鼻先をかすっていたようだ。

 雪男が燃えるような殺意の籠った目で男を睨む。


「そんなに熱く見つめるなよ。恥ずかしいじゃないか」

 右腕を大きく振りかぶった雪男が、物凄い勢いで男に突進する。

 2メートルを超える大男が、怒りに燃えて駆けて来るのは結構怖い。

「俺は臆病なんだ。怖いじゃないか」

 振り下ろされる拳を躱すと、跳び上がった羊が左を打ち下ろす。

 雑な攻撃だが、一度でも喰らえば命がない。

 身を沈めて躱した男は、左手を羊の首へ、左側へ伸ばす。

 跳んで着地する前の刹那に、男の右手は羊の右脇腹を掴む。

 渾身の力で右足が地を蹴り、捻った体を戻しながら起き上がる。

 羊の体が反転しながら持ち上がった。

 そのまま男は体を前に投げ出して、羊の頭を叩きつける。

 雪の中に羊が逆さに突き刺さる。

 男はその脇でのたうち、もがいていた。

 無理して持ち上げて、背中を痛めたようだ。

「うぅ……くそっ。何キロあるんだコイツ」

 300Kgくらいはありそうだ。

 怒りの羊が起き上がり、男を睨んで叫ぶ。

「メェ……メェエエエエ゛エ゛!」

 背中の痛みに耐えて、男も立ち上がる。

「くそっ。重すぎて、落とす場所を選ぶ余裕がなかった。ダメージなしか」

 投げた男のダメージの方が大きそうだ。

 雪が積もり過ぎていて、打撃も投げも効かない。

 あの速さに剣で対抗出来る自信が、男には無かった。

 この足場をどうにかしなければ殺される。

 男は必死で周囲を見渡す。

 待っていてくれる筈もなく、羊が跳び掛かる。

 力任せの単調な攻撃ではあるが、その速さと力は凄まじい。

 身を沈め、半歩退く。

 身を反らし、半歩退く。

 基本スウェーとダッキングで躱しながら、半歩半歩退いていく。

 怒りに燃える狂乱の羊は、息吐いきつく間もなく男を追い、拳を振るう。


 退き続けた男の足が、硬いコンクリートに乗った。

 振り下ろされる羊の拳を、躱して大きく跳び退く。

 コンクリートの床の四隅に柱を立て、簡単な屋根を付けた資材置場だった。

 壁がないので、雪が無い訳ではないが、踏みしめる硬い床があった。

「これを待ってたんだ。空振りってのは疲れるだろ? 回復は待ってやれないぞ」

 よだれを振りまき、息を乱し、怒り狂った羊が跳びかかる。

 羊の振り下ろされる右に、右を合わせる。

「プギョ! ミィエエエッ!」

 羊が変な啼き声をあげて怯んだ。

 男の拳が羊の小指と薬指を砕いていた。

 体勢を立て直す間を与えず、男の左ローキックが羊の膝を砕く。

 痛みに膝をついた羊に向かって、男が大きく踏み込んだ。

 強く地を蹴り前に向かう力を、踏み込んだ左足が受け止め腰へ流す。

 腰を捻り、力は背を駆け上がる。

 腰に溜めた右拳が打ち出される。

 肩を入れ、体中から搔き集めた力が拳に、2本の指に集約される。

「砕け散れぇ!」

 一撃必殺!

 上段正拳突きが、羊の胸に突き刺さる。

 必殺の衝撃が厚い胸板を突き抜け、胸骨が砕け散る。

「メェエエ゛エ゛……エッブェッ!」

 怒りに任せ無理矢理、雄叫びをあげた羊が血を吐く。

 砕けた骨が守るべき臓器を、傷つけ切り裂いていく。

「お前は何がしたかったんだ?」

 まるで魔法が解けたように、目の色が変わり大人しくなっていた。

 答える代わりに口からドボドボと血をこぼし、羊は静かに死んでいった。


 羊を片付けた男は、生き残った人々と倉庫へ戻る。

 エフゲニアは倉庫に引き籠ったままだった。

「お~い。もう大丈夫だ。雪男は片付いたから、出て来なさい」

 オリビエが中へ向かって呼びかけると、エフゲニアが出て来た。

「片付いた……だと? アレを倒したのか?」

 信じられないといった表情だが、男は何か違和感があった。

 エフゲニアの目に怒りが見える。

「ああ、この人が倒してくれたんだ。さぁ、アンタも一緒に帰ろう」

 倉庫の扉を閉められた事は、もう忘れたのだろうか。

 心が広いのか器が大きいのか。

 それともけてきたのか。

「何て事をしてくれたんだ! どれだけ手間がかかったと思ってるんだ!」

 寡黙かもくな猟師が、唾を飛ばして叫ぶ。

 エフゲニアがおかしな事を言い出した。

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