第11話 ハートが失われた理由

 ようやく、オレは絵画の傍を離れた。

 何も感じなかった心に、どうしてかぽっかりと穴が空いたような気がして、オレは落ち着かなくなっていた。


 宛もなく、彷徨さまよう様に横浜の街を歩く。

 海が見える公園に辿り着き、ベンチに腰掛けて木陰の風を浴びた。

 さわさわと揺れる葉の音に耳を澄ませながら、オレは目を閉じた。


 ふと、隣に誰か座った。

 それが誰かは、何となく分かる。どこか申し訳なさそうで、けれど遠慮なく。

 会話の糸口を探して、そわそわと動く彼の口元。


「落ち着けぇー。敦くんや」

「……太宰さんが、ここに居るからって」

「お迎えかい? ご苦労なこった」


 敦はケラケラと笑うオレに、眉を下げて口を結ぶ。彼の普段の様子とは少し違うその表情に、オレも姿勢を直す。


「……何かあったかい?」

「いえ、そのある人が、笹舟渡さんのその……」

オレの? はっきり云わん話けぇ?」


 敦は困ったように話を切り出す方法を探る。結局見つからずに、「孤児院育ち、なんですよね」と端的に尋ねた。オレは目を見開く。


 オレが孤児院育ちなことは、誰にも云っていない。探偵社に届けられた個人情報プロフィールにもそれは載っていなかった。

 知っているのは唯一、「一人暮らしは大変やな」と声を掛けてきた──……


「あの御仁、タネダさんしか知らないはずだ」

「その種田さんからの、話です。僕も、太宰さんから聞いて」

「慰めて来いってか? お断りだよ。不必要な気遣いはやめとくれ」


 さっさと話を切り上げたい。別の話題で誤魔化したい。どうしてか、そんな気持ちが込み上げる。


オレに感情は無い。そんなもの存在しない。生きるにあたって、人間関係を円滑にするだけの付加価値オプションが、オレにある筈が無い!)


 必死に胸の中で否定する。けれど敦は「僕も孤児院育ちですから」と笑う。


「僕は地獄の様な生活してましたけど、その……全部の孤児院がそうとは限らないですし。でも、孤児院の生活って、大変ですよね」


 敦の共感と、慰めがオレの胸の奥を震わせる。自分でも、開けたくないがひび割れているのが分かる


「そうだろうなぁ。集団行動ばかりだし、自由時間とか、勉強の時間とか、細かく区切られてるし」

「僕はしょっちゅう罰を受けてましたけど、笹舟渡さんはそんな事なさそうですよね」

「云われてみりゃあ、そうかもなぁ。大人しかったろうよ」

「……もしかして、話を早く終わらせたいんですか?」



「ばっか、違ぇよ! それじゃまるで、オレが思い出したくないみてぇじゃんけ!」



 脳に警鐘が鳴り響いて、「これ以上話をするな」と命令を出す。

 つい声を荒らげたが、敦は何かを確信したのか、「大丈夫です」と云う。



「僕、ちゃんと受け止めます」



 短くて、頼りない。オレは「無理だ」と云った。受け止められるものか。他人は平気で嘘をつく。信じるだけ無駄だ。適当に流してやればいい。


 ……けれど、胸の奥にあるは「出してくれ」とオレに訴えかけてくる。




「……細切りの、クリスマスケーキ」




 オレの口はそう零していた。

 敦は「えっ」とオレに注目した。

 オレは、どんな顔をすべきかも、どんな仕草をすべきかも知らないまま、その話をした。


聖誕祭クリスマスにだけ、オレ達はケーキが食べられる。貧乏な孤児院だったから、その一切れがご馳走なんだ」


 ──真っ白くて、赤い苺が乗った、素朴なケーキ。

 それに包丁を入れる瞬間の高揚を、まだ覚えている。


「いつも先生が、全員分に切り分けて、小さな皿に乗せてくれる。大きなケーキを一つだけ買うから、全員が食べる分は結構小さい」


 院の子供達、次に大人の順番に取り分けられるケーキは、とても細いし、苺だってひとり一個食べられたわけではない。

 けれど、ふわふわのスポンジ生地と、たっぷりのクリームが、子供達を笑顔にする。



「美味しかったですか?」



 敦はそう尋ねた。

 オレは、苦笑いを返した。


「分からない」


 頬を掻き、首裏を撫でて、腕を摩る。

 オレは敦から目を逸らした。





「────食べたことが無いんだ」





 自分の元に来るのは空の皿。先生は毎年、「一人分足りないから」とオレに空の皿を渡す。「我慢してね」と云う先生の皿にあるケーキが、とても羨ましかった。



 皆は食べられる。

 オレは食べられない。



 毎年繰り返されて、いつしかケーキに興味が無くなった。

 皆がご馳走ケーキに目を輝かせる中で、オレだけがいつも通りのご飯。

 子供たちがクリスマスプレゼントを貰っていたことを知ったのは、オレが孤児院を出た後だった。



「……先生にな、いつも云われるんだ。『我慢出来るよね』って」



 怪我をしても、友達に自分の玩具を奪われても、先生は決してオレを守ってくれない。

 褒めてくれた事も、撫でてくれたことも無い。


 ある日、誕生日に「おめでとう」と云われて撫でて貰えた子供がいた。

 誕生日を迎えると、子供達は先生に「おめでとう」と云って貰えることを知り、幼いオレは期待して、誕生日を待った。


 ついに迎えた誕生日。先生に祝って貰えると思ったけれど、いつになっても「おめでとう」と云われない。

 待ちきれなくなって、『今日誕生日なんだよ』と伝えた。


 ──今思えば、それが無ければ良かったのだ。それを云わなければ、オレは淡い幻想を抱いていられたのだ。




 ────『違うでしょ』。




(あぁ、嫌だ。思い出した)


 オレはぽろぽろと涙をこぼす。両腕を抱え込み、背中を丸めて未熟な自分を守るように。


 ──オレはその一件から、心を塞いだのだ。


 他の子達と同じものを欲しがってはいけない。

 同じことをしてはいけない。


 云われた通りにすれば、他の子と同じようにしてくれると思ったのに。オレは何も得られないまま、無邪気な子供の背中を見つめる幼少期を過ごした。



 どうして、私は駄目なの?

 どうして、他の子はいいの?


 何故、私は愛されないの?

 何故、私を愛してくれないの?


 どうすれば、私もそれを得られたの?

 どうすれば、私にそれが許された?


 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。



 答えのない問いに、納得出来る答えが欲しい。欲しくても、それを聞くことも許されない。

 人知れず泣く日々が辛くなって、私は心を捨てた。



「……楽だったんだ。何も感じなければ、何も欲しなければ、痛みも苦しみも──知らないままでいられる」



 愛情なんて、この世に存在しない。

 そんなものを求めるなんて、人間というのは莫迦げている。

 自分を満たせるのは自分だけ。それを痛感しながら、今の今まで生きてきた。


 だからだろうか、いつの間にか興味が無くなっていた。


 どうして他人に感情があるのかも。

 どうして自分に感情が無いのかも。


 悲しみも喜びも、オレとは縁遠い。

 愛を知らないのに、埋まらない虚しさは知っている。


 その理由のない苦しみを消したくて、他人に無関心になった。


「──最悪デショ。こんな、こんなさぁ……」


 こんな時、どんな顔をすればいい?

 どう感じればいい?


 それすら自分で決められない。

 それすら正しい方法が分からない。

 敦はなんと声を掛けようか悩んでいる。どう云えば良いのか、彼自身も悩んでいる。


 孤児院の苦しみは、オレも敦もよく知っている。けれど、二人とも境遇は違う。

 蓋を開けた孤独感は、オレに『消えろ』と囁いた。

 オレもそうしたかった。



「……お茶漬け」



 敦は、オロオロしながら云った。


「お茶漬け食べません!? ほら、お腹空いたでしょ! 近くに美味しいお茶漬けのお店あるんで、一緒に行きませんか? お茶漬け以外にも、美味しお茶漬けあるんで……って、えと」


 敦の慌てぶりを見ていると、何だか笑えてくる。

 オレは口元を隠して笑った。


「お、お茶漬け以外にも美味しい茶漬けって、……ぷくく。お茶漬けしか無かろうが」


 可笑しくて、何だか楽しくなってくる。

 これが『面白い』? それとも『楽しい』?

 ──どっちでもいいや。


「良いねぇ、お茶漬け。食べに行こうか。茶漬け以外の茶漬け、あるかねぇ?」

「あんまり揶揄からかわないでください……」

「悪ィな。面白いかったもんで」


 敦と一緒に、茶漬けを食べに公園を歩く。

 オレは自分にも感情があった事が、何となく『嬉し』かった。

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