二十九日目 約束の日
「・・・ん、アキ君」
「・・・ん」
「ねえ、アキ君ってば!」
耳を打つ声で、僕は重たい瞼を開ける。視界はだんだんと広がっていき、くっきりと目の前の光景が明らかになっていく。
そして、その全てが僕の目に映った時、僕の瞳から一粒の雫が零れ落ちた。
「おはよ、アキ君」
ベッドから上半身を起こして、瑞希は僕に声を掛けてくれていた。僕が目を覚ましたと分かると、ニコッとした笑みを浮かべて、僕にそう告げた。
けれど、返しの言葉よりも先に、僕の脳はその全てを察してしまった。分かってしまった。
目の前に映る元気な姿の瑞希が本物なら・・・、今日がその日だと。約束の日だと。
全ての終わりの日。瑞希と過ごす最後の日。それが今、僕の目の前にあると。
「・・・あ」
言葉を失くして、僕の身体は地面に崩れ落ちそうになる。しかし、すんでのところで僕の身体は止まった。まだ、自分で自分を制するだけの力が僕にはどうやら残っていたようだ。
一度体が止まると、あとは流れるように全てを受け入れることが出来た。この目の前の光景が幻ではないこと、今日が約束の日で、最後の日であること。
そして、その時自分に何ができるか。その全てを正面から受け止めることができた。
だから僕は地に着いた両足でしっかりと踏ん張り、反らすことのない瞳で瑞希を見つめて、いつものように言う。
「うん、おはよう。瑞希」
そう、今日が最後の日。
瑞希の命が、終わる時だ。
---
それから僕は、瑞希を抱きかかえて車いすに乗せて、約束通り病院から連れ去った。慣れ親しんだ車に乗せて、そのまま家路を急ぐ。
隣に座る瑞希の様子は、果てしない慈愛と穏やかさに満ちていた。それはまるで、病気になることなんて考えなかったあの頃のように。
また一緒に流行の歌を口ずさんで、鼻歌混じりに車を飛ばして、他愛のない話を行いながら前へ進んでいく。
家路を急いでいたはずが、僕はいつの間にか車の進路を変更させていた。もちろん、家に帰らないわけではない。所謂寄り道というやつだ。
それに瑞希も気が付いたようで、僕にそっと声を掛ける。
「どしたの、アキ君」
「せっかくだし、グルっと回って帰ろうかなって。気分転換だよ」
「そか」
なんて言って、瑞希を納得させるけど、そんな言葉じゃ収まりきらない。
僕はこの一瞬を永遠にしたいと勝手にもがいていた。どうにもならないことを分かっていながらも、一分、一秒、あの頃と何も変わらないこの時間を続けていたかった。
それでも、時間は有限だ。絶対に終わりは来る。
僕が観念したのは、寄り道を決行してから10分くらい経っての事だった。
一つ、瑞希に気づかれないくらいのため息を吐いて、僕はそっと言葉を吐き出す。
「・・・それじゃ、帰ろうか」
「そうだね」
そうしてまた一つ、いつもの時間が終わった。
それでも時間は止まらないから、僕は進み続ける。
---
家についたのは、昼の1時頃だった。本当ならどこかお洒落な店でも連れていきたいところだけど、そんなこと僕には似合わないし、何より病人の身体にそれは酷だった。
だから、今日も今まで通り、いつものように家で二人で昼食を食べる。
もうすっかり慣れた手つきで食材を捌いて、形あるものに変えていく。自分の椅子に腰かけて、ぼーっとテレビを見ている瑞希を長い間待たせないように。
それから出来上がった料理を瑞希の待つテーブルへ運んでいく。二人分だけど、いつもより明らかに量は少なめだ。
瑞希は、車内にいたときよりも元気を失っていた。苦し気な顔をしているわけではない。けれど確かに、力だけは失いつつある。
例えるならメーターだろうか。それが、どんどん減少しているということに簡単に気づけない僕ではない。
そして全ての準備を終えて、僕は瑞希の向かい側ではなく、瑞希の隣に座った。僕が食べさせないと食事ができないまで、瑞希の腕力は弱ってしまっていたから。
「「いただきます」」
二人でそう唱えて、食事を始める。といっても、僕自身が食べるに至ることはほとんどなかった。
ただ、呼吸を合わせて瑞希の口元にスプーンを近づける。あとはそれを瑞希が口にする。その行為を延々と繰り返した。
『一緒の食事』をしていたはずなのに、揃わない行動がたまらなくもどかしい。
それでも、口にするたびに「おいしいよ」と瑞希が感想を伝えてくれる、この時間があるだけで今は幸せに思う。それ以上の感想はなかった。
そしてその時間も、終わる。
---
それから、車いすに瑞希を乗せて散歩に出た。
数日前の雨はすっかり上がって、今は燃える太陽がただアスファルトを照らし続けている。その道の上を、僕たちは歩いていく。
瑞希の身体はますます動かなくなっていた。まるでそれは、余命宣告を告げられてから今までの道のりを振り返るように、瑞希はだんだんと、人としての機能を失っている。
それでも、それを悲しいと思う僕たちは、もうここにはいない。
それからは、ただ歩いた。鼻歌の音と、心地の良い声が織りなす言葉と、風の音を耳で感じながら、僕は瑞希と共に歩いた。
二人が出会った大学の近くを。
瑞希に愛を告げた歩道橋の上を。
いつか二人で花火を見上げた河原の道を。
綺麗だねと言葉を交わした桜並木の道を。
ワンピースを着た瑞希を写真に収めたひまわり畑の近くを。
雨に濡れた瑞希をただ抱きしめた、いつかの空き地のそばを。
愛を誓って、もう一度瑞希を見つけたあの丘に向けて、僕たちは歩き続けた。そこが、僕と瑞希の、最後に目指す場所だった。
僕たちが歩いてきた道のりを、たった数年の、数えきれない思い出を紡いだ道を振り返るように、僕たちは歩いて回った。
疲れることなんてなかった。瑞希の為なら、その言葉が浮かび続ける限り、僕はどこまでも足を動かせた。
そうして、日が暮れる。
それと同時に、瑞希の命の灯も、揺らぎ始めていた。
---
僕と瑞希がいつかの丘にたどり着いた時、すっかり日は暮れていた。街明かりだけが、ただぼんやりと僕と瑞希を照らす。
暗いためか、瑞希の顔は横からではよく見えなかった。けれど、呼吸のリズムや吹く風の心地で分かる。瑞希の命の灯が消える時が、すぐそこに迫っていることを。
だから、最後に。・・・最後、に。
どうしても聞かなきゃいけないことがある。確かめなきゃいけないことがある。僕の自己満足かもしれないけど、僕の杞憂かもしれないけど、その口から、その言葉で、聞かなきゃいけないことが、ある。
しかし、勇気が出ない。最後の時だって言うのに、ギリッと歯を食いしばって次の言葉を考えることしか出来ない。最後の最後まで、どこまでも情けない自分が悔しくて悔しくて、泣きそうになる。
けれど、それをいつも包んでくれたのが瑞希だった。・・・そしてそれは、今も同じで。
かすかに力を込めた手が、車いすの取っ手を握る僕の手に触れる。言葉が耳に届いたのは、それからすぐの事だった。
「・・・楽しかったね」
「っ・・・! ・・・うん、楽しかったよ。毎日、何をしても飽きることなんてなかった。一日一日が、幸せだって思えた。・・・喧嘩しても、言い合っても、大好きだった。あの日々の事、瑞希の事・・・!」
「そか。・・・だったら、嬉しいなぁ」
「・・・」
「幸せだったよ、アキ君」
もう、限界などとっくに超えていた。ため込んだすべての感情が溢れ出て、僕はいよいよその場に崩れ去る。最後の時を前にして、笑ってなんかいられなかった。これまで沢山沢山泣いてきたのに、流れる涙は留まることを知らない。
「うっ・・・あぁ・・・うあああああ!!!」
慟哭のように涙を流す。嗚咽しながら涙を流す。
けれど、沢山泣いても、「好きだ」と叫んでも、もうあの日々は返ってこない。今日が最後。そんなことを思って、ただ泣き続けた。
その時・・・
「えっ・・・?」
僕の右のほほに、温かい何かが触れた。目を反らしてしまった顔を上げると、そこに瑞希はいた。僕の前にしゃがみ込んで、小さな左手で僕の頬に確かに触れていた。
「ね。泣かないで、アキ君」
「・・・瑞、希・・・」
ありえない。足はもう動かないって言われて、瑞希自身がなにより納得していたっていうのに。そんな非科学的なことが、起こるはずなんて・・・。
でも、そんな理屈なんて今はどうでもよかった。あるのは目の前の現実だけだ。
瑞希は、僕の好きな瑞希のままで、いつものように微笑みながら、僕の目の前にいる。
僕はそっと左手を伸ばして、瑞希の右肩に触れる。それからすぐに、瑞希を自分の方へ抱き寄せた。
「きゃっ!?」
「大好きだ。・・・大好きだから・・・!」
どうか行かないで…。その言葉は口に出来ない。
あの日々を幸せだったと言ってくれた瑞希の想いを、無下になんてできない。
涙でズルズルになった顔をどうにかニヘっと笑顔に変えて、僕は瑞希に向ける。それを受けて、瑞希はこれまで以上に微笑んでくれた。その表情は僕には温かすぎて、いつの間にか涙まで乾いていた。
それから、柔らかな吐息に乗せて瑞希は言葉を紡ぐ。
「幸せだった。私の最後の時にいてくれる人がアキ君でよかった。好きになってよかった。妻になれてよかった。・・・私の人生、こんな言葉じゃ語れないくらいだけど・・・、アキ君、大好きだよ」
瑞希もほんのり目尻に涙を滲ませて、僕に笑いかける。
その時、僕の世界の陽を妨げていた雲が一斉に晴れ渡っていった。刺さる光を浴びながら、僕は地に足をついて空を見上げながら思う。
ああ・・・。僕は、僕の人生は。
こんなにも晴れやかで、曇りのないくらい、綺麗なものだったんだ。
僕はきっと、目の前の最愛の彼女の笑顔を忘れることは出来ないだろう。呪いのように刻まれて、未来永劫。
でも、それでいい。僕はこの笑顔のためにきっと頑張れる。そんな気がした。
だから僕は、笑顔でいよう。いつか瑞希に、今日と同じような笑顔で迎えられるために。
僕は瑞希をそのまま抱き上げて、丘の端の方へ立った。そのまま二人で、煌めく街を遠く眺める。
「綺麗、だね」
「・・・うん。とても、綺麗」
「・・・あのさ、瑞希」
「どしたの?」
「僕、ようやく見つけたんだ。瑞希の事」
これまでの瑞希の言葉の全てを、想いを全て受け取ることが出来た今、僕はようやく瑞希のことを見つけることが出来たと言える。
優しい夜の風に包まれて、僕は誓う。
「だからさ、もうきっと迷うことはないと思うんだ。・・・だから、ありがとう」
「・・・そっか。見つけてくれたかぁ。・・・じゃあもう、何もいらないや」
瑞希は満足そうに呟いて、目を伏せる。それは眠りの合図だった。歪だけど穏やかな呼吸のリズムを、微かに弾む心臓のリズムを、僕は体の全部を持って受け止める。
「ねえ・・・アキ君」
「何?」
「いつかまた会えるから・・・。・・・きっと、また」
「・・・うん。例え会えなくても、どこにいても見つけ出すから。・・・だから」
『おやすみ』
そう呟いた時、瑞希は眠りについた。小さく肩を揺らして、なおも心臓を小さく弾ませて。
それはこれまでと同じように、ただ眠りにつくかのように。
「・・・こんなんじゃ、死ぬだなんて思わないよな。・・・ははっ」
瑞希らしい眠りに、僕は笑みをこぼす。最後まで、瑞希は瑞希らしくいた。
だったら僕も、僕のままで。
「・・・帰ろうか、瑞希」
ぬくもりの待つ、あの部屋へ。
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