二十八日目 最後の雨、上がって

 

 昨晩から降り続けていた雨が、朝になってようやく止んだ。どうもそれが、僕には最後の雨に思えた。

 もちろん、僕の人生における最後の雨であるはずはない。当然、自然現象において雨が降らないなんてことはこの国ではありえない。

 上がった雨は、僕の哀しみを巻き込んだ雨なのかもしれない。


 今日も朝から瑞希の眠る部屋の椅子に座って、ただぼんやりと外を眺める。そして、瑞希の目覚めをただゆっくりと待つ。ゆっくり、ゆっくりと。

 今日目覚めるかどうかなど分からないが、今日は目覚めてくれるような気がした。昨日見たあの光景を、僕は幻と思っていないから。

 とはいっても、目覚めてほしいと思わない僕も、少なからず僕の中に存在していた。医者の言った言葉が、またよみがえる。

 

 次に目を覚まして、元気な姿を見せた時が、おそらく最後だと。


 覚悟は出来ているつもりでいるけど、やはり怖い。瑞希が僕に見せるであろう眩しい笑顔に、僕は耐えることが出来るのだろうか。

 ぽつりぽつりと、弱い感情が僕の心の中に波紋を残していく。最後の雨の、その残りの雫だろうか。

 僕はそれをそっと心に潜めて、手元の携帯端末に目線を落とす。ただ、そんなことを繰り返していた。


 また今日も、一時間、二時間と時間が過ぎていく。

 退屈ではないなんて言えば嘘になる。それでも、僕が傍を離れているうちに目覚められたら、僕はそれを一生後悔してしまうかもしれない。だから意地でもここを離れない。


 そして、それは突然だった。

 

 また、昨日みたいに音がしたかと思うと、横たわっている瑞希の身体がゴソリと動いた。それも、昨日より大きく。

 目頭が熱くなる。油断してしまえば、頬に雫が伝っていくだろう。それを僕は流さないように歯を食いしばる。

 言いたいことはいっぱいある。聞きたいこともいっぱいある。それでも、それを求めるだけの時間はきっとない。

 だから、僕は変わらない僕でいようと、瑞希の傍へと歩みより、いつものようにそっと声を掛けた。


「おはよ、瑞希」


 そう、あの日々で何度も何度も口にしてきた、当たり前のようで大切な言葉。今日という一日が始まる合図、魔法の言葉。

 瑞希は小さく頷いて、機械越しに口先を動かした。


『おはよう』と。


 それが嬉しかった。幸せに思えた。ほんの少し、わずかな行動。それにすら幸せを覚えれる人生を、今僕は過ごしているんだ。

 それから瑞希は、腕をプルプルと震えさせながら、自分の口元についている機械をコンコンと二度小さくたたいた。どうやら、外してくれということらしい。

 

 僕は誰に許可を取るよりも早く、その機械を瑞希から外した。それから瑞希はいつものようにニヘッと笑う。


「いやー・・・、なかなか、しんどい・・・もんだね、これ」


 こんな状況でも瑞希は瑞希だった。死に瀕して、とっくに死への恐怖などなくなったのだろう。だから僕も、いつもの僕でいる。


「機械人間になった気分はどんな感じ?」


「いいもん・・・じゃ、ないよ。さすがに・・・さ」


「それより、やっぱり苦しい? 心臓とか」


「・・・もう、そんな感覚も・・・ない、かも」


 瑞希は口元まで寄せていた手をポトリと布団に落として、また小さくつぶやく。哀愁漂う雰囲気。言葉に潜んでいた少しの元気も、もう失われていた。


「怠い・・・かなぁ。今、動ける気・・・しないもん・・・。ずっと眠ってた・・・からかなぁ」


「それもあるんじゃないかな」


「だよねぇ・・・」


 それから瑞希は「はぁ」と小さくため息を吐く。ひどく無力になってしまった自分を、これまで以上に痛感してしまったんだろう。最も、それを悲観することが無くなったのは、きっとこれまでとの大きな違いだけど。

 

 それよりも、僕が気になっていたのは、今日が先生の言う「その日」かどうかだった。少なくとも、今の瑞希を病院から連れ出す勇気は、僕にはなかった。

 そんな心配をしている僕をよそに、瑞希は両腕を震えさせながら、グーとパーを定期的に繰り返していた。自分の腕が動くかどうか確かめているのだろうか。

 

 その行動が終わった時、瑞希は僕の方に首をわずかに動かして言葉を吐いた。


「・・・もう、今日は眠いから・・・寝てもいいかな?」


「また、起きてくれる?」


「・・・大丈夫」

 

 瑞希は辛うじて動く腕でピースサインを作った。その笑顔の前では反論も何もない。何より、僕は瑞希を信じている。信じなかったことなど一度もないと振り返りながら、そんなことを思う。


「・・・その前に、やりたいこと・・・あるから、少し部屋から・・・出ててくれる?」


「え? ・・・まあ、いい、けど・・・」


「ありがと。・・・五分くらいで、終わる、から」


 瑞希の要求通り、僕は部屋から退出した。僕に隠れて何をしているのか、気にならないわけはなかったが、ほかならぬ瑞希の頼みを断ることは出来ない。僕はただ無言のまま、目をつぶって五分の時を数えた。

 

 しかし、五分待ったところで思う。中から声を掛けられても、今の瑞希のか細い声では多分届かないと。

 だから僕はイチかバチかにかけ、扉を開く。怒られた時は、またその時だと。


 部屋の中の瑞希は、すっかり眠ってしまっていた。こちらに来てからはおそらく一番の、穏やかな寝息を立てながら。


「・・・本当に、お疲れって顔だね」


 僕は瑞希の口にまた呼吸器をつける。今は安定した呼吸を行ってるとはいえ、それが乱れるのはきっと時間の問題だ。希望論で片付けることは出来ないという事を、僕がなによりも分かっている。

 無機質な機械を瑞希の口につけて、そのついでに僕は瑞希の肌に触れた。あの日失われていた温度を、今少しばかり取り返して、瑞希はここに眠っている。それでもまだ冷たいけど。

 僕は眠る瑞希のやせ細った腕を軽く握った。せめて、この体温を忘れないようにと。


 そしてその腕を離して、僕はまた、先ほどまで自分が座っていた椅子へ座り、さっきまでのほんのわずかな幸せを思い返した。


 目覚めてくれたこと、言葉を交わしてくれたこと、体温を取り戻してくれたこと、笑ってくれたこと・・・。

 

 そんな些細なことが、僕の幸せだ。それをちっぽけだなんて、誰にも言わせない。これまで歩んだ人生は、今日この日のためにあると、声を大きくして叫んでやる。



 だから・・・最後の日を。

 心から幸せだったと思える最後の日を、僕は、僕たちで、作ろう。



 どんなに小さくても、ここに揃った二つの小さな足跡を、僕たちで残そう。




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