二十六日目 空白、その先の未来
目覚めは突然。いつもならぼんやりと開くはずの目が、今日はすぐに開けた。最高の目覚め、なのだろうか。
そうだとしたら、納得は行く。昨日は、心から穏やかで安らかな状態で眠りにつけていたはずだ。幸せに包まれていた。これ以上の幸せはきっとないだろうと、そんな気持ちで眠れていた。
それから僕はぐっと体を伸ばす。それから隣の瑞希を見た。
そして・・・ほどなくして、その違和感に気が付く。
体が動いていない。心臓が膨らみ、小さくなるその様子が一向に見えない。・・・息を、していない・・・!
「瑞希っ・・・」
そして、瑞希の色白の肌に触れた瞬間、体中にゾワリと鳥肌が立った。
・・・冷たい。少なくとも、それが人間の体温とは思えないほどに。
「瑞希っ!」
大声を出したところで声が届くはずもない。瑞希は完全に意識を失っていた。最悪の場合・・・。
そんなこと気にしたって仕方がない!!
僕は急いでスマートフォンで救急に連絡をかけた。今ここで心臓マッサージや人工呼吸を行ったところでほとんど意味をなさないのは目に見えて明らかだった。
ほどなくして、電話がつながる。僕は平静を失わないギリギリのところで丁寧に現状を伝えた。
終わりがはじまる、そんな冷たい朝。
---
電話が終わり、救急車に乗り込み、手術室に連れていかれる瑞希を見送った僕は、ひどく空虚な気持ちになった。氾濫した川のように色々な情報が流れては抜けていく。それを受け止めるだけの力を今の僕は持っていなかった。
ベンチでぼんやりと、無機質な天井を見上げる。改めて瑞希の命の終わりを知った今、涙を流すことも出来ず、言葉を発することも出来なかった。悔しいくらいに無力な自分を恨むことも、もう出来なかった。
そんな空っぽな僕に声を掛ける人がいた。瑞希の余命を宣告した、瑞希の担当医だった。
「・・・こうなりましたか」
「・・・」
「そう邪険にしないでください。・・・色々と、お話したいことがあるんです」
瑞希の担当医はそう言うと僕の隣に腰かけた。そのまま、少し冷めた声音で僕に語り掛ける。
「・・・もともと、私はこうなることを予想していました。だからこそ、あなたたちに無理をしないように勧めました」
「・・・自分の正当化ですか?」
「違います。人生の選択は人それぞれ、あなたと瑞希さんが選んだ答えを否定するつもりはありません。・・・私が話したいのはこれまでと一緒。・・・今後の事です」
「今後? ・・・今後なんてあるんですか?」
「ええ。・・・あと少し、ほんの少しだけ、時間が」
それから手術室のランプが消える。開いた扉から殺伐とした空気が流れてこなかったということはきっと手術は成功したのだろう。そう思えた。
しかし、安堵の息はなかった。そう思う余裕すら、今の僕にはない。
病室に運ばれる瑞希を見送ったのち、先生は続けた。
「・・・消える前のろうそくがどうなるか知ってますか?」
「確か、最後だけ強く燃えて、それから消える・・・」
「そうです。・・・今日はどうか分かりませんが、瑞希さんはしばらくしたら目を覚ますでしょう。・・・しかし多分、もう前みたいな元気はないと思えます。それほどまでに、衰弱してしまっているので」
「・・・」
「だからもし、次瑞希さんが元気そうな様子を見せたらその時は・・・。覚悟しておいてください」
その言葉を受けた数秒後に、僕はようやく先生が言おうとしていたことを理解した。そして、そこが明確な「最期の時」ということを理解する。正真正銘ラストチャンスだ。
それを終えてしまえば、死んでしまう。命の火が消える時だ。
「その日は、病院から瑞希を連れ去ってもいいって言うんですか?」
「これまでだってそんな感じだったでしょう。二人で選んで、入院を拒んで。だったら、最後までそうしてもらわないとこっちも困りますよ」
「そうですか」
少しだけ、安心した。
もうすぐ終わる、最愛の人の人生ですら飾ることすらできないとなれば、僕はいよいよ死にたくなっていただろう。
だんだんと、空っぽだった僕の心に火がともってきた。悲しみや悔しさの感情より先に、これからあるべき自分のイメージがどんどんと溜まっていく。
僕は、最後まで瑞希の好きな僕でいる。瑞希の好きだった、春田秋也で。
それが今、僕にできるコト。ありのままの僕でいることが、僕のなすべきこと。
ずっと悩んでいたことが今になって分かった気がして、僕はおかしな気持ちになって笑った。ずっと何をすればいいかなんて考えていたけど、答えはこんなに簡単だったんだ。
でも、それが難しかったから、いつの間にか遠ざけていた。見失っていた。
見つけてしまえば、僕は強くあれる気がした。
僕はすっくと立ちあがる。取り戻した気力は、僕の身体に確かな芯を植え付けた。ぶれない足で、僕は大地に立つ。その様子を見て、先生は言葉だけ僕に投げかけた。
「・・・瑞希さんは、503号室にいます。今日は目覚めないかもしれませんが・・・」
「いえ、行きます。ありがとうございました」
それ以降は何も言わず、僕は自分の足で瑞希の待つ病室へと歩いて行った。籠った空気の熱でさえ受け付けないくらい、僕の意識は一点にのみ集まっていた。
---
それから、瑞希の待つ503号室のドアをノックする。もちろん、反応なんて
あるはずはないけれど。
ひとつ深呼吸をして、僕はドアをスライドさせる。その奥、一人ようの病室、そのベッドの上で瑞希は眠っていた。口元に機械が付けられてはいるが、小さく揺れ動く心臓の鼓動を僕はちゃんと目視出来た。瑞希は、まだちゃんと生きてくれていた。
「・・・瑞希」
髪を撫でようとするが、すんでのところでとまる。そういうことはきっと、瑞希が起きてからにしたほうがいい。眠っているところを襲うなんて卑怯だから。
それから、脇の椅子に腰かけて、改めて瑞希の顔を覗く。瑞希の顔には、これまでの覇気はなく、わずかに生気を感じるだけだった。それが、確かな終わりを物語っている。
『次に瑞希さんが元気そうな様子を見せたときには・・・』
ふと、さっきの先生の言葉がよみがえる。
それがいつだとは明言されていない。今日かもしれないし、明日かもしれない。明後日かもしれなければ、ひょっとして来週になるかもしれない。
分からないから・・・、いつになってもいいように準備をするのが僕のすることだ。
その時にはきっと、全ての迷いなんてないように。全ての後悔なんてないように。
小さく拳を握る。それをほどいてくれる瑞希がそこにいなくとも。
それからまた瑞希の弱った顔に目を戻す。すると、ふと心の奥底から言葉が湧いてきた。
これまで一緒に歩いてきた感謝の言葉、幸せにあふれていた記憶が言葉となって喉元に現れてくる。・・・幸い誰もいない。今ここは僕と瑞希だけの空間だ。
溜まった言葉を一つずつ、僕は目の前に並べる。
「・・・ねえ、瑞希、楽しかった? 20と数年、ここまで生きてさ。・・・そりゃあ、ずっと楽しかったなんてことはさすがにないと思うけどさ」
そんな人間はどこにもいないだろと自分に突っ込んで、僕は続ける。
「僕はさ、幸せってやっぱり難しいなって思った。何を基準にしてるのか、何をクリアすればいいのか、なんて理屈めいたことでもないし、かといって一瞬だけの幸福を幸せなんて言っていいのかもわからずにさ。・・・でも、楽しかったことだけは確かなんだよ」
瑞希といた。ただ、それだけで楽しかった。
この三十日近くだってそうだ。辛い現実に打ちのめされて、何度も衝突して、嘘ついて、素直になれなくて、嫌いになるかもなんて少し思ってしまった自分がいたけど・・・。その毎日は、間違いなく楽しかった。そこに瑞希がいた。ただそれだけで楽しいと思えた。
「もっとたくさんしたいこともあったし、もっと同じ未来を生きたいと思ったけど、無理、みたいだからさ・・・。求めるの、もうやめたんだ。・・・それに、一緒にいるだけで僕は満たされるから、うん。それだけでいい」
ただ一緒にいる。その当たり前のようなことを最後まで続けれることが出来たら、それ以上にはもう何もいらないと今なら思える。
僕という人間は狂ったのだろうか。きっと狂っているだろう。
人は、もっと求めろと言われるはずだ。足掻けと言われるはずだ。
でも、それだけが幸せの形じゃないことを、僕はもう知った。きっと、瑞希もそうだと信じてるから。
物語の終わりが綺麗なら、きっと幸せだから。
「・・・それじゃ、着替えとか色々持ってくるよ。・・・起きたら瑞希の思い、聞かせてね」
確証のない約束をその場に残して、僕は部屋を一度後にした。
もうすぐ、終わりの扉が開く・・・。
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