二十五日目 そして星の降る夜に
今日は、約束の日。
ちゃんと昨日約束したんだ。今日、結婚式を挙げると。瑞希が明らかに無理をしてるのは分かっている。それでも、これだけは譲れなかった。
だから、そのことについてもう文句は言わない。文句を言うだけの時間は、もうない。
ここから先は・・・いつ瑞希が倒れるか、いつ瑞希が眠りにつくか分からない。
だから今日と言う日を全力で生きる。どれだけすれ違っても、向いている方向はきっと一緒なはずだから。
今日は・・・せめて、今日だけは、最後まで笑っていよう。
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朝支度を済ませて、いつものように寝室で眠る瑞希の傍で椅子に座って瑞希の目覚めを待つ。呻き声こそないけれど、穏やかな顔もしていない。今日の瑞希は、背筋が凍り付いてしまいそうなほど静かな眠りについていた。
かすかな呼吸を感じ取って、僕は安堵に浸る。少しばかり波打つ布団が、瑞希の存在を証明していた。
あと、六日、いや、五日だろうか。きっと瑞希の様子では、本当に余命通りに死んでしまうのだろう。気力が、だとか、モチベーションが、だとか、その類の話はとっくに通り越してしまっている。ここから先は自然の摂理なのだ。
最近、手の先や足の先にしわが増えてきている。というよりは、皮膚の緩みだろうか。筋肉が衰えてしまっているのが目に見えて分かる。足が動かないのも納得がいく。
呼吸のリズムもいつにもまして不安定だ。そうした歪な呼吸リズムでないと、ろくに血が回らないのだろう。心臓を患ってるのがはっきりとわかる。
語ればキリがないから一言でまとめる。・・・瑞希の身体はもう持たない。
瑞希を失う日が近づいてきている。ここ最近はずっとそんなことを考えている。
本当に、僕たちはやり切ったのだろうか。
瑞希がやりたいとはっきり口にしたことは、今日で全て終わる。それで瑞希が満足なら、僕はそれ以上をもう求めないけど。
・・・瑞希は、本当に幸せだったのだろうか。
さすがに僕には自信が無い。精一杯やってるつもりではいるけど、それが果たして瑞希を満たしているのかどうかは確証が持てない。
・・・なんて、それを満たすために今日があるんだけど。
・・・
・・・・・・
などと物思いに更けているとどうやらいつの間にか眠っていたようで、意識を取り戻した僕はゆっくりと瞼を開けた。
そんな僕の目の間に、『両足でしっかりと立っている』瑞希がいた。
「瑞希っ・・・!?」
「どしたの?」
そこで、幻は弾ける。
僕の目の前にいたのは、少しだけ体を起こした状態でベッドに横たわっている瑞希だった。・・・ここ最近の、いつもの、瑞希だ。
でも、僕の目の前にちょこんと座っている瑞希は、ここ数日の中では一番元気そうに見えた。空元気かもしれないなんて思ったりするけど、それを言ったところで誰も幸せにならない。
「・・・いや、何でもないよ、おはよ」
「うん、おはよう」
「薬、持ってくるね」
セットにした薬を持ってきて、それを瑞希に飲ませる。今の瑞希はコップ一つ持つのもやっとといった力しか持っていなかった。
一通り薬を飲み終わった瑞希は穏やかな顔をして、僕の方を見る。鎮痛剤が効いて痛みが和らいだのだろうか。はたまた別の理由だろうか。それは分からないけど、そこはどうでもいい。
「・・・今日だね」
「そうだね。・・・やっと、今日を迎えることが出来た」
それが、どれだけ貴重なことか。もう、それを知らない僕らではなかった。
ここに今日があることは、奇跡の連続なのだと、ずっと口先でしか言えなかったようなことを今なら心の底から言葉にすることが出来る。
「それで、瑞希、これからどうする?」
「んー・・・もう少し横になっておこうかな。あと、今日はお昼ごはん、一緒に食べたい」
「分かった。ここ最近、ずっと出来なかったことだしね」
時計をちらりと横目で確認する。針は朝の11時を指している。昼食を作るにはどうやらまだ早そうだ。
そう思って、僕は椅子にもう一度深く腰掛け直す。その行動を見てか、瑞希は僕に声を掛けた。
「アキ君、行かないの?」
「まだ作り始めるには早い時間かなって思ってさ。それに、落ち着いた状況でこうやって話せるの、なんか久しぶりかなって思って」
「えー、そうかな?」
瑞希ははぐらかすように笑うけど、ここ数日はずっとすれ違ってばかりいたような気がする。
二人とも自分を偽っていたわけじゃない。お互いが本心に向き合って、真っすぐに生きていたからこそ、すれ違っていた。誰も悪くないすれ違いだ。
今日は、どうしてかそうならない気がした。どんな言葉でも、どんな現実でも許せる気がした。それは、「結婚式」と銘打った今日を迎えることが出来たからだろうか。
「・・・なんかさ、僕ら、ずっと自分の中で割り切れたなんて嘘をついていたような気がするんだ」
「と、言うと?」
「今日を楽しめばいい、だとか、悲しまず生きる、とかさ、そんなことばかり意識してきたけど・・・、結局、そんなことできるはずなんてなかった。理屈じゃ理解できても、僕らは、目の前の死を、本能で理解できてなかったんだ。だからそう、今だって怖いし、変わらない明日を欲しがってしまう」
「・・・でも、手に入らないんだよね?」
「最近、それが痛いほど分かった。それでも欲しがって、焦ってた。だからすれ違って、落ち着いた会話すら出来なくなってたんだよ、きっと」
「・・・そう言うからには、何か進展があったのかな?」
瑞希は無垢な瞳で問いかける。僕はその問いかけに対して力なく首を横に振ることしか出来なかった。
「何もないよ。無理だよ、最後の最後まで割り切るなんてきっと。ずっと悩みながら、苦しみながら生きなきゃいけない。・・・そんな日々を明るくするために、今日みたいな日があると思うんだ」
「辛い思いを忘れるくらいまで楽しい日にしようって?」
「まあ、そうなるのかな。・・・忘れるなんて不可能だから、塗りつぶすってのが正解だと思うけど」
そう、これが僕なりの答え。割り切れないと知って、悲しまずいられないと知って。だから、偽りない幸せの記憶で悲しみを塗りつぶすことがきっと最適解なんだって。
別にやることは変わらない。瑞希を幸せにする。そのために全力で生きる。最初から口にし続けたこれだけは何も変わらなかった。
僕がやるべきことは・・・僕に、出来ることは・・・。
それは、僕が幸せを掴むことだった。
きっとそれは、瑞希のいない世界でも変わらない。どれだけ辛い事だろうか、今からでも想像できる。二人なら簡単に掴めようとしていた幸せが遠く離れていき、それを今度は一人で掴まなければならないのだから。
何度も折れるだろう。何度もくじけて、死にたいなんて思ってしまうだろう。きっと立ちはだかる現実は想像の何倍も辛いだろう。それでも、僕は僕を信じて接してくれる人の存在を改めて確認できた。肌で感じることが出来た。・・・そして、一人じゃないと思えた。
だから、頑張ってみることにする。・・・いつか、瑞希が言った「生きてね」という言葉が今ならしっかりと両手で受け取れる気がした。
「・・・だから、頑張ってみるよ」
「うん、頑張ろう。・・・ずっと、見守ってるよ」
瑞希は僕に微笑みかけるとそっと瞼を閉じた。
少し経ったが寝息は聞こえない。多分、ただ瞑目しているだけなのだろう。
「・・・それじゃ、僕は昼ごはん作ってくるから、待っててね」
「え、私も行くよ」
「じゃあなんで目閉じてたのさ」
「てへっ」
瑞希は曇りない瞳で笑う。その瞳が透き通っていたと、今なら信じることが出来た。
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そして、今日は穏やかなまま時が流れた。きっとどこかで、僕たちの結婚を祝福してくれている誰かが願ってくれたのだろう。
夕食を済ませたところで、瑞希は数日間自分が作っていた何かを手に持ち、僕を見つめてきた。時間、という事だろう。
「・・・それじゃ、行く?」
「うん」
僕は瑞希をひょいと車いすに乗せて、家のドアを開けた。そうしてこの前のように、夜の河川敷を下っていく。
とはいえ、瑞希が決めた具体的な場所を僕は知っていなかった。確認のために、僕は瑞希に聞いてみる。
「ねえ、瑞希。そう言えばどこらへんなの?」
「もう少し真っすぐ」
「分かった」
僕は指示されるがままに進む。すると今度は明かりのない坂の目の前に着いた。いつの間にか河川敷からも逸れている。
「それで、瑞希・・・?」
「この坂、上るよ」
「あ、はい」
ケロリとした顔で言われるが、それなりに勾配のある坂だ。上るのには一苦労するだろう。
けど、瑞希は楽しそうに笑っている。たったそれだけで、僕は頑張れる気がした。
そして、言われるがままに瑞希と明かりのない、アスファルトの坂を上っていく。
その頂点に達した時、僕は言葉を失った。
「・・・こんな、ところが」
「うん。私のね、この街でのもう一つのお気に入りの場所。あの場所みたいなものだね」
「なんで、こんなところを?」
「・・・私が、地元でよくあの場所に連れて行ってもらってたことをアキ君は知ってるよね? ・・・この場所も、そんなところ。大学生活のためにこの街にきて、でも友達という友達もなかなかいなくてできなくて、辛くなった時にいつも一人でここに来てた」
風に髪をなびかせて、瑞希は今にも消え入りそうな声で続ける。
「・・・そんな時に、アキ君は私を見つけてくれたんだよ。・・・だから、そんな私の思い出の場所で、もう一度、アキ君に見つけてほしいの」
「瑞希・・・」
僕はこの場所で瑞希をちゃんと見つける。そうしたら、もう二人は迷わないような気がした。
そして僕は一度首肯して、瑞希の隣に立つ。そのまま天を仰いで、神父が言うような定型文を復唱した。
僕も瑞希も、少し恥ずかし気な気持ちになりながら、芯のある声音で「誓います」と答える。誰もいない、明かりも遠くにしか見えない、暗いこの場所で僕たちは言葉にして愛を誓った。
それからほどなくして、唇と唇が触れる。ほんの数秒。けれど瑞希の温かさを確かめるのには、その数秒で十分だった。
最後にもう一度リングを嵌め直して、この小さな結婚式は終わる。僕は少し頬を赤らめている瑞希の顔を覗きこんだ。その視線に気が付いて、瑞希は儚げに笑う。
「・・・終わっちゃったね」
「続ける?」
「続けるも何も、これ以上やることなんてないでしょ?」
「まあね」
「・・・」
瑞希はそれからしばらく黙っていたが、急にもじもじ動き出した。何かまだ伝えきれてないことがあるのだろうか。僕は問いかける。
「瑞希?」
「あのね、アキ君。・・・これ、渡しておかなきゃって思って」
そう言って、瑞希は数日間自分が作っていた何かを包装された袋ごと僕に手渡した。ずっと待っていたものが手渡されて、僕の気分は少しばかり高揚する。
「プレゼント、ってこと?」
「まあ、そんなとこ。・・・ね、開けてよ」
瑞希から催促されて、僕は口を縛っている紐をほどき、中にあるものを取り出した。
そこに在ったのは、季節はずれのマフラーだった。
「・・・マフラー?」
「本当はね、去年の冬に作るつもりだったんだけど、ほら、いろいろあったじゃん。・・・でも、そうこう言えなくなっちゃった。だから、うん。季節外れだけどマフラー」
「・・・ありがとう」
僕は詰まった声でそうこぼす。それからすぐに、温度のある涙が頬を伝い始めた。
これが、瑞希から贈られる最後のプレゼント。
そう思うと、心のそこから寂しくなった。それが雫となって、僕の頬を伝っていく。
「い、嫌だった?」
「そんなことないでしょ・・・。絶対に・・・あるはず・・・」
瑞希を安心されることも出来ずに、僕の涙はひたすら流れていく。張りつめた感情がほころぶと、そこからは早かった。
情けない新郎だ。ホント。
瑞希は仕方がなさそうに、小さく笑った。
「・・・忘れないでね、私のこと」
「もちろん。・・・絶対に、絶対に忘れない・・・!」
手元のマフラーには、瑞希のぬくもりが確かに残っている。これがある限り、僕は絶対に瑞希のことを忘れないだろう。忘れることなどできないだろう。
僕は涙を拭って、もう一度瑞希にキスをする。今ある体温を忘れないように。
星降る夜の下、僕はもう一度、瑞希を見つけた。
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