二十四日目 明日の午後は


 今日は悪夢を見ることもなく、いつもの時間通りに目を覚ます。隣で眠っている瑞希の表情は、心なしか苦しそうに見えた。また悪夢にうなされているのだろうか。それとも意識しないところで体調不良に見舞われているのだろうか。はたまた・・・。


 しかし、それが起こることはもう不思議ではない。割り切るしかないし、割り切る術は得たつもりでいる。だから僕は何もしない。いつも通り過ごして瑞希を待つ。

 

 毎朝同じルーティンで過ごす。瑞希が病に倒れてから始めてこのルーティンに自分を埋めて過ごしてきた。それももうずいぶんと慣れた気がする。

 それでもやっぱり、ご飯は二人で食べる方がおいしいし、一人でゴロゴロしてもつまらない。誰が主軸で動くかが変わっても、二人でいることだけは欠けてはいけない日々だ。


 だから今日も、一人寂しく瑞希の目覚めを待つ。


 そんなとき、ふと卓上の瑞希の作っていたものが目に入った。昨日無理したこともあって、瑞希はちゃんとそれを完成させたようだった。

 とはいえ、僕は瑞希が何を作っていたのか分からない。聞かないことにするとは言ったものの、やっぱり少しは気になる。

 ・・・いや、でも。


 僕が卓上のそれに手を伸ばすかどうか悩んでいたその時、寝室からか細く、甲高い悲鳴が壁伝いに僕の耳に入る。嫌な呻き声だ。


「・・・いけない、薬持って行かないと」


 それどころではない現実に、僕の雑念は振り払われた。急いで僕はキッチンへ向かい、用意された薬と水を瑞希の下へ持っていく。

 

 寝室で横たわっている瑞希は先ほどよりも表情を苦悶に滲ませていた。意識は覚醒しているのだろうけども、目は開いていない。痛みに耐えきれず、目を開けることもままならないのだろう。

 ただ、昨日よりも良いと思えることがあるとすれば、瑞希が声を取り戻していたこと。ひどくか細く、今にもかき消されそうな声だけど、確かに音にして僕の耳にそれを届けている。


「痛い」「苦しい」「助けて」と、何度もつぶやく声を。


 心臓に手を当てて、瑞希は苦しそうにしている。足の感覚を奪われて、じたばたもがくことも出来ない状態で。


「瑞希、口開けて」


 僕はどうにか平静を保ったまま、瑞希にそう促す。しばらくして、瑞希は重たそうに口を開いた。僕はそこに器用に水と薬を流し込む。

 しかし、少し和らいだだけに過ぎないのか、瑞希は苦痛に満ちた表情を変えることはなかった。眉の方に寄ったしわが少し柔らかくなる程度。薬の効力は間違いなく落ちていた。


 それでも僕は焦らない。僕はただひたすらに僕に出来ることを考えた。

 滲み出ている体の汗を拭いた。肌に触れた瞬間、尋常じゃない熱を瑞希が纏っていることに気づく。僕はすぐに濡れタオルを用意した。

 エアコンをつけるのはかえってまずいのではないかと、瑞希の傍で団扇を仰ぐ。果たしてそれが何かの役に立つのかと思っていたが、少しだけ口の端を上げて瑞希は二ッと笑ってくれた。


 あとは・・・。


 その時、瑞希は心臓に当てていたはずの自分の手を僕の忙しい右手に伸ばし、握って小さな声で呟いた。


「・・・アキ君、・・・落ち着いて・・・」


「いや、落ち着けないでしょ・・・」


「あはは・・・だよ、ね・・・」


 こんな状況でも、瑞希は笑って見せた。痛みに耐えきれず、目尻に涙を溜めた状態で、いつものように僕に笑っている。それを見ていると、焦っている僕が馬鹿馬鹿しくなった。保とうとしていた平静も、いつの間にか失われていたようだ。


「・・・ね、大丈夫、だから・・・だいじょう・・・っ!」


「無理しないでったら! ・・・なんで、苦しいのにそんなに」


「だって、明日だから・・・、結婚式」


「それなら体調が少しでも優れた日に変えれば」


「明日じゃなきゃいやなの!」


 瑞希はボロボロになった体を顧みることなく、全身全霊、心の奥底から怒りをあらわにした。ここまで大きな声で怒鳴られたのは出会ってから初めてだった。こんなに苦しいはずなのに、これまでの人生で一番の力を瑞希は振り絞っていた。


「ダメなの・・・、もう、ダメなの・・・。時間が・・・ないの・・・」


「分かってるけど・・・!」


 それでも我を押し通そうとする僕に、瑞希はぽろぽろと涙を流しながら、また笑った。儚い笑顔がただむなしく僕の胸を突き刺す。


「・・・もう、明後日自分が起きている自信が無いの。・・・体、もう制御できないくらい痛いの。ずっと黙っててごめん・・・。今はもう、起きてるだけでもしんどいの」


「瑞希・・・」


「でも、やりたいことだもん・・・。どんな形になっても、今さら中止なんてしたくない・・・。ちゃんとやり切るって決めたから、明日だったらまだ頑張れるから・・・。もし、明日ちゃんとできるなら」


「それ以上は言わないで!!」


 今度は僕が怒鳴る番だった。

 瑞希が何を言おうとしてるのか、僕はすぐに理解できた。だからこそ、その言葉は瑞希の口から聞きたくなかった。


 もし、明日ちゃんとできるなら・・・


『明日死んでも構わない』


 間違いなく、瑞希はそう言葉にしようとしていた。でも、残される身として、それは許せない。許したくない。

 僕は今、全てを欲しがっていた。


 明日の結婚式をちゃんと成功させたい。でも、瑞希に無理をしてほしくもない。死ぬなんてもってのほかだ。瑞希には、ちゃんと最期まで頑張って生き抜いてほしい。明日を最後だなんて言わないでほしい。

 分かってる。僕が今の瑞希を分かっていないことを。今の僕はと言うと全ての自分のエゴを押し付けているだけ。病気で、いかに瑞希が苦しんでいるかなんて僕は理解できない。・・・ずっと、終わるまで理解できないままだ。

 

 だから、分かってしまう。・・・この衝突は、絶対に解決しない。最後の、最後まで。

 

 本当の気持ちを隠し切れなくなった瑞希はまた涙をポロポロと流しながら、僕に弱音をぶつける。


「・・・死にたくないよ、アキ君・・・」


「分かってる」


 僕はまた瑞希を抱きしめる。・・・抱きしめることしか、僕には出来ない。

 瑞希は本音を隠さなくなった。弱い自分を曝け出してくれるようになった。それは紛れもなく嬉しいことだけど、現実を突きつけられるのも事実だからまた辛い。


 もう何日、同じような思いをしているのだろう。あと何日、僕は同じことを続けるのだろう。

 一歩も前に進むことができない自分が、僕は嫌いだ。大嫌いだ。

 

 今の僕には、瑞希のお願いをちゃんと聞いて、傷つく瑞希をただ見守るだけしかできないのだろう。悔しいけれど、きっとそれが現実なんだ。

 ・・・あと何回歯を食いしばって、それに耐えればいいのだろう。


 最近は、笑うことも減った気がする。・・・あの頃の僕らは、どんな顔をしていたのだろう。


 ・・・忘れよう。今は、そんな気分になってる場合じゃない。

 僕は二三度首を横に振って、浮かんでいる不安の雲を消し去った。


「・・・瑞希、明日、どこでやろうか?」


「結婚式・・・?」


「うん」


「そうだね・・・この間の河川敷、夜にやろうよ。そっちのほうが・・・ロマンチックでしょ?」


「古臭い言葉だね」


「なんだって~?」


 お互い苦しいから、お互いもう何も言わない。

 見据える方向が一緒なら、今はきっとこれでいい。


 失いつつある幸せの中で、僕たちは小さな幸せを毎日探していこう。



 残された日々を、輝かせるために。




 

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