十六日目 今、僕にできるコト
今日の瑞希は、調子が良さそうではなかった。
というより、僕が目覚めた理由が瑞希の呻き声だった。
深夜の三時半。ただ苦しそうな呻き声が部屋中にこだまして、僕はそれで目を覚ます。当然、気分のいい目覚めではない。
かといって、起こして薬を飲ませることが正しいかどうかわからない。このまま放っておいてもう一度寝るのも忍びない。
僕が選んだ答えは顔を洗って、瑞希の近くに座ってその様子を見守ることだけだった。
そうして、日が昇る。自身の苦しみもあってか、瑞希が目覚めたのは五時半だった。
「・・・おはよ、アキ君」
「寝れないくらいにしんどい?」
「あは・・・今日はちょっと・・・かなりまずいかも」
「分かった。とりあえず薬と水は持ってきておく。・・・お粥、食べれる?」
「食欲はないけど・・・食べないとダメそうだから、ちょっとだけ」
「分かった」
弱弱しくつぶやく瑞希を少しだけその場においたまま、僕はキッチンへと向かった。そしてあらかじめ用意していた食材でお粥を作る。あまり慣れてはいないけど、瑞希のためなら頑張れる気がした。
それから数分後、なんとかお粥と呼べるものを僕は作り上げた。先述通り、水と薬をお盆に一緒に乗せて瑞希の待つ寝室へ向かう。
瑞希は先ほどより苦しそうな吐息をしていた。このままでは自分で体を動かすこともままならないだろう。
僕の残りの生活のすべてを介護に費やす自信は・・・ある。僕は逃げずに瑞希に向き合った。
「瑞希、体動かしていい?」
「・・・いい」
瑞希の承諾を得て、僕は瑞希の身体をどうにか上半身だけ起こした。流石に寝たきりの状態だと消化に悪い。
そしてそのまま、僕はお粥に添えられた木製のスプーンをお粥に入れて中身を掬い、瑞希の口元に寄せた。
「はい、あーんして」
「・・・ん」
瑞希は僕の方に微かに口を寄せて、残された力で口を開けた。そこに僕は力作のお粥を入れる。
相対的に少しばかり少ない回数の咀嚼を経て、そのお粥は瑞希の喉を通過していく。瑞希は小さな声で呟いた。
「・・・おいしい」
「そう? ならよかった」
そしてすぐさま瑞希はまた口を開ける。どうやらこのお粥を気に入ってくれたようだ。喜んで僕は次の一口を用意する。
そうして同じ作業を繰り返して、結局瑞希は僕が作ったお粥を平らげてしまった。残される覚悟は出来ていたが、完食してもらえたことは素直に嬉しかった。
力尽きたのか、瑞希はまた枕にぽふりと頭を落とした。どうやら相当無理をしていたみたいだ。
けど、目は開いている。胃に食べ物が入ったためか、意識もしっかりしていた。
うまく薬を飲ませた後で、僕は瑞希に改めて聞いてみる。
「・・・大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
「ごめん・・・」
「・・・無理もないよ。でも、さっきのお粥。あれ食べたおかげで、少しはらくになったよ。あはっ・・・」
瑞希は口の端を動かして小さく笑う。僕への気遣いが間違いなくそこには現れていた。
「・・・ねえ、アキ君。今日はずっと傍にいて」
「言われずともそうするつもりだよ」
「ありがと。・・・」
それでも、瑞希は弱った顔をやめない。心で頑張ってはいても、体は正直なようだ。
それが連鎖して瞬く間に瑞希の心も蝕んでいく。その連鎖が、ただたた続いているだけだった。
「病気になる前、私って何をやってたんだっけ」
「どうしたの? 急に」
「なんかね・・・。最近ドタバタした生活が続いていたからさ、これまでの私が分からなくなっちゃって」
「それは・・・」
いえば、確かにそうだった。
僕たちは、当たり前の暮らしをしていた。でも、その当たり前を今はもう思い出すことはできない。それほどまでに、非日常な毎日に僕たちは巻き込まれていた。
朝六時に瑞希が目覚めて、朝食が出来上がるころに僕が起きる。それから一緒に食事をして、瑞希のお手製弁当を片手に会社へと向かう。それから返ってきて家事を手伝って、また一緒にご飯を食べて、おやすみまで言って。
余命宣告されて最初はそれをうまく続けてきたつもりだった。けれど、変わってしまった心境ではそれを何も考えずに楽しむなんてできなくなっていたんだ。
僕たちの当たり前って、なんだったんだっけ・・・。
「どうだったか、僕も覚えてないや」
「だよね・・・。でもね、私思うの。結局、そう思うのには病気なんて関係ないって」
「どういうこと?」
「たぶん、当たり前だったことはいつかは忘れるんだと思う。どんなに楽しくても、体にしみ込んでいても。・・・だから、きっとこれまでの自分を忘れることは、間違いじゃないと思う」
「それが幸せだった記憶でも?」
「これから幸せな記憶を上書きできるなら、それでいいと思う」
瑞希は細々とした声で、確固たる主張を行った。理解こそ難しいが、できれば納得は容易いものだった。
「過去を忘れることも、また大事って?」
「じゃなきゃ苦しくてやってけないでしょ。振り返って立ち止まって、でもいつまでもそうしているわけにもいかないでしょ?」
ごもっともだ。そして、やっぱりここ最近の瑞希の言動は瑞希のいなくなった未来の僕に向けられたものだとようやく理解する。
瑞希は、着々と別れる準備を進めていたのだ。
別にそれを責めようとする気はない。言ってることはごもっともだし、瑞希もそうして欲しいんだと思う。でも、やっぱり残される側の気持ちは、去る側には考えられないようだ。
「・・・辛いね」
「そりゃきっとお互い様だよ。・・・でももう、泣かないって言ったし私は頑張ってるよ。アキ君も、だよね?」
そうだ。僕もあれから何度も涙をこらえて歯を食いしばってきた。悲しみをかみ砕いて、どうにか血に中和させていた。
いつ決壊するか分からないダムにだんだんと感情は蓄積されているけど。
「アキ君」
「今度はなに?」
「添い寝」
「・・・分かった」
瑞希のお願いだ。断るはずなんてない。
僕はしっかりとベッドの上の布団に潜り込んで、瑞希の隣に転がった。そうすると、瑞希は震える腕で僕の頭をそっと撫で始める。
「・・・足が動かなくなっちゃった。今度はどこが壊れるのか分からないし、怖いよ。・・・だからさ、出来るうちにできるだけのことをやらせてほしいの」
「じゃあ僕は、瑞希が満足するまで甘えるよ」
「うん。そうしてほしい」
僕が頭をゆだねると、瑞希はまた腕を動かしてゆっくりと僕の頭を撫でた。
でも、僕は気づいた。その腕が震えている理由を。
単純に身体の問題かと思っていたけど、そうじゃない。・・・瑞希も、この世界と別れる覚悟がまだ出来てないんだ。
本当なら母として子をこうして撫でたかったんだと思う。母親になりたいという願いを瑞希からはたびたび聞いていた。
でも、どれだけ手を尽くしても・・・限界はある。
それはきっと瑞希も分かってる。だから今こうしているんだ。
もし、病気がない未来があったらって今でも何度も想像するし、きっとすべての終わりまで続くと思う。
でももう、それを躊躇わないで生きれるように。
僕は、どこまでも君に寄り添う。
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