十三日目 信じてるから


 約束通り、僕は会社に行くことにした。

 瑞希も診断前と何も変わらないような様子で朝を迎えていた。そこに多少の無理があるのかもしれないけど、それはこの際気にしない。


 朝食を済ませて、出来るだけの家事を手伝って、そして瑞希から受け取ったお手製の弁当を詰め込んだ仕事鞄を片手に、僕は玄関へ。


「行ってくる」


「うん、頑張って」


「瑞希も」


 僕はそれ以上何も言わずに玄関の扉を開けて外の世界へと繰り出した。一心に瑞希の視線を浴びながら。



---


 出社定刻15分前だというのに、オフィスはなかなか忙しそうな様子だった。

 何をすればいいか、なんてのを聞く余裕もなさそうな社員ばかり。僕は古里さんのデスクに寄って、仕事の確認を行った。


「おはようございます、古里さん」


「おう、悪かったな。こんな状況で」


「いいんです。それに、瑞希に行ってって背中を押されたので」


「そうか」


 僕がちゃんと理由を説明したことに寄って気に病むことがなくなったのか、古里さんは一つ咳ばらいをして本題に触れた。


「一つ大きな案件が入ってな、この部署をフル動員しなければいけない状態になったんだ」


「なるほど・・・。それで、僕は何をすればいいんですか?」


「ああ、書類作成を担当してもらおうと思っている。元来、お前の担当はそこだっただろ?」


「分かりました」


「データはすでに転送してある。よろしく頼む」


 そして古里さんは僕の肩を軽く叩いた。それから気力に満ちた瞳で僕をしっかりと見つめてくる。


「今がお前にとって一番辛い時期なのは分かっている。・・・頑張ってくれ」


「大丈夫ですよ。もう散々、頑張れって言われましたから。・・・頑張れます。やってみせます」


 瑞希の言った言葉を僕は何度も復唱する。

 僕ならできる、と。


 ああ、やってみせる。もう何も怖くない。


「それじゃ、僕は仕事に行きます」


「ああ、頼む」


 古里さんに背を向けて、僕は自分のデスクへ胸を張って歩いていく。どこからともなく自信が湧いてくる。

 パソコンの電源を入れると次第に映し出されていく仕事の数々。

 普段ならその量の多さにげんなりしてやる気をなくしていたかもしれない。


 でも今だけなら、僕は誰よりも何よりも最強な存在でいれる気がした。



---


 ひたすら指を手を動かして数時間。時計は12時30分を指示していた。

 昼休憩の時間まで仕事がまたいでしまったが、午前中のノルマはとっくに超えている。こんなに力以上のものを発揮できたのは初めてだ。


「・・・さて、と」


 残された30分で僕は瑞希の作ってくれた弁当を楽しむわけだけど・・・。

 僕が席を発とうとした瞬間、後ろからトントンと肩を叩かれた。存在感で分かる。古里さんだ。


「古里さんも今からお昼ですか?」


「ああ。またいつものところに行くのか?」


「特にそのつもりはなかったんですけど、そうしましょうか。せっかくですし」


 時間がないとはいえ、いつものルーティンにはこだわりたい。

 僕は立ち上がってまた前のように屋上へ通ずる階段を上っていった。


 ギイと重苦しい音を立てて屋上のドアが開く。そしていつものごとく僕はベンチに腰かけた。今日は弁当を開こうとする手も軽い。

 前みたいな感傷に浸らないわけじゃなかったけど、ブルーな気分になることもなかった。


 古里さんは僕の隣に腰かけるなり口を開いた。


「作ってもらったのか、弁当」


「電話の後で瑞希に聞いたんですよ。本当によかったのかって。そしたら、久しぶりに弁当を作りたくなったって言ってて。それでまたやる気が起きたんですよ」


「確かに今日のお前ときたら鬼気迫る表情で仕事をこなしていたからな。あそこまで本気になれる人間は初めて見た」


「よしてください。・・・それに、瑞希も頑張るって言ったんです。僕はそれを信じてここに来ました。きっと瑞希は瑞希の問題に真正面から立ち向かって頑張っているはずです」


「強いんだな、瑞希君は」


「はい。そりゃあもう」


 強いなんて言葉の一つで片付けられるようなものじゃない。

 自分の命のリミットなんて絶望しかない相手に真っ向から向き合える。それはきっとどんな「強さ」をも凌駕するはずだ。

 本当なら、とっくに心折れて、投げ出したくなるはずのものなのに。


 それから僕はいただきますと告げて弁当を口にした。いつもと変わらない味。美味しい。その言葉以外の何もいらない。

 それが表情に現れているのか、古里さんは微笑しながら僕に言ってきた。


「随分と美味しそうに食べるな」


「そりゃあだって、美味しい事には変わらないですから。古里さんの奥さんの弁当はどうなんですか?」


「そりゃウチのカミさんのも美味いさ。そこは間違いない。・・・でも、なんだ。いつの間にか、今のお前みたいな反応をすることも無くなったな」


「それは、どうしてですか?」


「さあな。でもきっと、それは俺がこの味を「当たり前のもの」と捉えてしまったからなんだろうな。当たり前のものなんて、この世には何もないってのに」


 古里さんは少しばかり悔しそうに語った。歳を経て若いころの考えや行動ができなくなってしまったことを悔やんでいるのだろう。

 僕も、こうなっていたのだろうか。そんな考えがチラッと脳裏をよぎる。

 

 けど、僕は僕。今を生きることを大切にする人間だ。この今は当たり前のものじゃないことを分かってる。大丈夫。


「でもきっと、分かってくれますよ。古里さんが美味しそうに食べてるってこと」


「そんなもんなのか?」


「ええ、きっとそうです」


 大切なのは、信じること。瑞希に教わった大切なことだ。

 裏切られた時の事なんて考えない。それが信じるという事だから。


「・・・そうか。そうだよな」


 古里さんも分かったようで、一度首を縦に振った。


「んじゃ、さっさと食べて英気を養って午後の業務に取り組むぞ。午前のノルマが終わってるとはいえ、午後の業務をさぼっちゃ話にならないからな」


「了解です」


 これまでずっと続いてきたこの場所のこの空気も、きっと当たり前ではない。その当たり前ではない全てを、きっと今なら僕は全部大事にできる気がする。



---



 午後の業務もペースダウンせずに難なく終えた。古里さんは「本当は残業も覚悟していた」なんて言っていたけど、本気を出せれば人間こんなものだ。

 僕はきっちりと役割を終えて、急ぎ足で瑞希の待つ家へと帰っていく。頑張ってくれているはずの瑞希に早く会って大丈夫という事を確かめたかった。


 前みたいな不安はあるにはある。でも、信じることが出来た。


 玄関のドアを開ける。が、瑞希の姿はない。

 でも、「ただいま」と声を上げたら、小さく「おかえり」と返事があった。それだけで僕は胸を撫でおろす。

  

 そして、リビングへと進んでいく。瑞希はぐったりした様子でソファに寝ころんでいた。目はしっかりと開いているけれど、元気はない。

 机の方に目を向けると、封の空いた薬がいくつか散らばっていた。本当にギリギリのところで戦っていたのだと僕は息を飲む。

 でも、取り乱す様子を瑞希に見せたくはない。僕は平静を装って瑞希の前にしゃがみ込んで、そっと声を掛けた。


「ただいま、瑞希」


「・・・うん、おかえりアキ君。・・・私、頑張ったよ」


「そうだね、瑞希は頑張った」


「今日に限ってすごく痛かったし、何度も・・・吐きかけたし、体も・・・途中から動かなくなったけど、私ちゃんと、アキ君の帰り・・・待てた」


 瑞希は途切れ途切れに言葉を吐く。苦しそうな呼吸のリズムが耳にこだまする。今にも力尽き果てそうな瑞希の身体を僕はそっと抱いた。


「うん。・・・瑞希は、待っててくれた。頑張ってくれた」


「だから・・・今日はもう、眠ってもいいかな」


「うん。・・・おやすみ、瑞希」


 僕が穏やかな声音で告げると、瑞希はゆっくりと瞼を閉じて死んだように眠り始めた。それでも呼吸が深いだけで死んではいないから、まだ僕は平気でいられたけど。


 でも、今日これではっきりした。


 僕はもう、瑞希のそばを離れることは出来ない。仕事に来いと言われても、きっともう無理だろう。

 こんなぼろぼろになった瑞希を僕は見たくない。背中を押されたといっても限度はある。


 ・・・当たり前のものなんてこの世にはない。昼に食べた、あの弁当だって今日が最後かもしれない。


 だから・・・この答えは揺るがないだろう。


 僕は瑞希を寝間着に着替えさせて、そのままお姫様抱っこで寝室へと運んだ。この眠りの深さなら、もう瑞希は明日の朝まで起きないだろう。

 おやすみの言葉と頬に軽いキスをして、僕はお姫様の眠るベッドに別れを告げてリビングへ戻る。

 瞳に映ったのは、散らかった薬のごみの山。そこには僕たちの無力さが無残に示しだされている。


「瑞希っ・・・!」




 僕は、痛いくらいに拳を握った。

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