十日目 ブルーズ・デイ
悪夢は、突然だった。
「・・・ん」
朝四時くらいだろうか。僕の意識が覚め始めたとき、それは起こった。
「っ!! 痛いっ!! 痛いぃっ!!!」
「!? 瑞希!」
僕の意識は瑞希の悲痛な叫び声で急に覚醒する。目が覚めるなり、僕はすぐに瑞希の肩を持った。
瑞希の表情は、これまで一度も見たことないくらいに歪んでいた。苦痛以外の感情は、一切見受けられない。
かといって、テンパっているのは僕も同じで、何をすればいいのか正しい判断は全くと言っていいほど出来なかった。どうにか瑞希の背中に手を当てて優しくさする。
「瑞希、大丈夫!? しっかりして!」
「痛い・・・痛いよ・・・。助けて・・・アキ君・・・!!」
瑞希は僕の身体に痛いほど抱きついて、震えだす。シャツの、瑞希と接している部分がじんわりと濡れているので、瑞希が泣いていることが分かった。
僕はなす術もなく、泣き続ける瑞希を受け入れて抱きしめる。僕の胸に顔をうずめて、瑞希はずっと「痛い、痛い」と呻き続ける。
次のウェーブが収まった時に鎮痛剤を飲んだとして、瑞希の痛みはどれだけ和らぐだろう。もし効かなかったら、もっとひどくなったら。そんな嫌な予感だけがどんどん増幅していく。
こうして悪夢を見せられるたびに、僕は痛いほど実感させられる。
最愛の瑞希の、命の終わりを。
---
結局、瑞希の状態はあまり良くならなかった。
激痛のために涙を流すことは無くなったようだけど、起き上がることも不可能に近いような状態が続いているようだった。
とはいえ、ずっと寝室だとやり取りが難しいと判断して、苦痛を承知で僕は瑞希をリビングのソファへと動かして、そのまま急いで古里さんに電話を掛けた。
この状態だ。出社どころじゃない。
コールが数回も行われないうちに、古里さんは電話に出た。
『まずいのか?』
「・・・はい。すいません」
『今病院か?』
「家です。・・・が、瑞希の病状がかなり悪くて・・・放っておいて、出社は出来ません」
『いつかこういう日が来るとは思ってたが・・・。というより、この調子だと今後も続きそうだな』
古里さんの言葉に、僕は黙り込む。まさしくその通りだと思えたから。
ただでさえわがまま通してこうしてもらっているのに、さらに休みをよこせとはいよいよ言い難い。僕はたちまち葛藤の沼へと沈んでいく。
そこに手を差し伸べてくれるのが、やはり古里さんだった。
『・・・もういい、お前、もう会社に来るな』
「え?」
『ああ、勘違いするな。あくまで全てが終わるまで、だ。・・・ちゃんと最期を見届けて、けじめ着いたら、また来い。それまで休暇扱いにしておいてやるよ』
「でも・・・」
『じゃああれか? お前はしんどそうにしている妻をそのままに会社に来るのか?』
電話越しの古里さんは、怒っていた。
けれど、忘れてはいけない。それはあくまで、僕のために怒ってくれていることを。
古里さんが心配を向けている矛先は、うぬぼれでもなんでもなく僕だった。
「・・・それは」
『それに、会社でずっと嫁さんの体調気にしてそれで支障が出る方が会社としても迷惑だ。話は通るだろうよ』
「・・・すいません、度々こんなこと」
『いい。もともとこうなるって分かってたからな。それより今は、嫁さんの傍にいてやれ。それが出来るのはお前だけだろ?』
古里さんに促されて、はっと気づく。
僕の今の使命は、完全にこの場所にしかない。僕がいる意味も、この場所にある。
だから僕は、はやく瑞希の隣に戻りたかった。
「古里さん、そろそろ電話、切ってもいいですか?」
『・・・ようやく自分のやるべきことを分かったようだな。いいぜ。またかけてこい』
「すいません。では」
僕はプツリと電話を切って、そのままソファで苦悶に満ちた表情をしている瑞希の下へと駆け寄った。
瑞希も、意識はすっかり覚醒していたようで、苦し気に眉を顰めて、申し訳なさそうな声で僕に吐きかけた。
「ごめんねアキ君。私のせいで・・・」
「謝らないで! ・・・謝らないで、お願いだから」
瑞希には、謝ってほしくなかった。誰も、何も悪くないんだ。本当に呪うべき相手がいるとしたら、それは運命というもの以外の何者でもない。
それに、僕が無理をしているように思ってほしくなかった。僕が瑞希と一緒にいるのは使命でも役割でもなんでもなくて、本能からの行動だから。
だから、こうしている一瞬だって、僕は嫌悪な気持ちを抱くことはないんだ。
僕が少々声を荒げたことで、瑞希は少し肩をすくめる。
「あはは・・・怒られちゃった。アキ君、普通怒鳴ることもないのにね」
「ごめん・・・。でも、瑞希には謝ってほしくなかったんだ」
「・・・本当に、私、何やってるんだろ」
瑞希は似合わない言葉をぽしょりと呟く。本当は怒られてもケロリとして受け流すくらいの器量を持ち合わせていたのに、今はその見る影もない。
瑞希は、それほどまでに弱っていたんだ。
僕は一つため息をついて、瑞希が横になっているソファの足元にもたれかかるように転がる。
「いいんだよ。僕はどんな瑞希でも受け入れるって、。それは課せられた使命でも役割でもない。僕自身の意思だから。・・・だからさ、そんな風に自分を責めないでよ」
「・・・うん」
布団に顔をうずめて、瑞希は小さく返事を返す。そこには反省の色が見えた。
・・・本当に、こんな顔をしてほしくて話してるわけじゃないのに。
だから、こういう日は。
互いの愛を、ちゃんと確かめたい。
一つ息を吸って、僕ははっきりとした声音で瑞希に問いかけた。
「就活さ、大変だったよね」
「・・・何件も落ちた。大学自体の知名度やブランドも悪くなかったし、資格がないわけじゃなかったのに、全くダメだった」
「僕もだよ。・・・だから瑞希と出会えたんだよね」
「構内のカフェで、四年生っぽい人が悲哀に満ちてたから、あぁ、きっと私と一緒なんだなって思えて、つい」
「・・・あの時は、本当に助かったよ」
失敗続きの日々で、僕はダメになりそうだった。かといって頼れる友人は皆とっくに就職を勝ち取っていて、僕だけ取り残されていた。
そんなある日の学食のカフェで、僕に声をかけてくれたのが瑞希だった。本当にダメになりそうだった僕に手を差し伸べてくれたんだ。
だから僕はあの日から今まで、ずっと頑張れている。
「ううん。私の方がきっと助けられた。・・・きっとあの時は多分、慰め合いが出来ればよかったんだと思う。でも、励まし合うと、頑張れるようになって、それで、最後まで頑張れた」
「それからまあ、いろいろあったけどさ・・・。振り返ってみれば、全部がいい思い出のように思えるよね」
「そうだね」
出来た古傷だって、痛みがなくなればいい思い出になるんだ。
・・・でも、瑞希を失うことは、そんな思い出になりえるのだろうか。
それに呼応するように、瑞希は寂し気に呟いた。
「・・・死にたくないなぁ」
瑞希はきっと、誰に向かった言葉でないこの言葉を呟いた。だから僕は敢えて聞かなかったふりをしておく。そうしたほうが、きっと互いのためだから。
「ねえ、瑞希」
「なあに?」
「本当に・・・僕を好きになってよかったの?」
唐突に、そんなことを僕は尋ねてしまった。
愛を確かめたかったとはいえ、あまりにもストレートすぎるその言葉に瑞希は黙り込む。
そして、少し怒ったような声音で答えた。
「アキ君以外の選択肢なんて、今はもうないから。・・・そんなこと、聞かないで」
「ごめん。・・・でも、それならよかった」
瑞希に愛されていると分かったから、僕はまだ戦える。
まだ頑張れる。
僕が欲しがったのは、呪文だったんだ。
ブルーな日々を乗り越えるために、過酷な運命に最後まで反抗するために立ち上がるための、勇気が湧いてくる呪文を。
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