八日目 オレンジ色の未来


 朝七時。目覚めは、少しまだ慣れない布団だった。

 隣に敷いてある布団で瑞希は眠っている。しかし、キッチンの方からトントンと包丁の音が聞こえる。優子さんだ。

 僕は目をこすってどうにかしゃんと立って、キッチンの方へ顔を出す。


「おはようございます」


「あら、おはようアキ君。よく眠れた?」


「はい。おかげさまで」


 この家で眠る時はいつもそうだ。どこか心からの安息のようなものを感じる。

 僕の両親は早いうちに亡くなっちゃって、親からの優しさを十分に得ることが出来なかったからなのかな。分からないけど。

 でも、この二人に出会って僕に足りなかったそのやさしさに触れることが出来た。本当に、頭が上がらない二人なんだ。僕にとって。


 ・・・もしこのまま瑞希が死んだら、僕とこの人たちの関係はどうなるんだろう。

 なんて、切れてしまうことは僕が一番望まない未来だけど。


「朝ごはん、もう少しでできるから待ってね」


「あ、いえ。すいません、急かしてるように見えましたか?」


「ううん。大丈夫よ。ここで待つなら、そこ座っててくれる?」


「分かりました」


 僕は食卓の自分の席に座って、キッチンで淡々と料理をする優子さんの背中を眺めていた。そして、その姿、立ち振る舞いや仕草が瑞希とそっくりなことに気づく。この二人は、やっぱり親子なのだ。

 ただ眺めているだけで、じんわりと涙がにじんでくる。それを悟られないように、僕は急いでその雫を拭った。


 そんな中で、優子さんは僕のことを一切見ずに、背中越しに語り掛けてくる。


「ねえ、変なこと聞いていいかな?」


「いいですけど・・・なんですか?」


「アキ君は、瑞希のどこが好きになったのかな?」


 急に160キロのストレートボールを投げられたような感覚に見舞われて、僕は言葉に詰まる。

 そんなの、いくら上げたってキリがないくらいだ。僕は隅から隅まで瑞希のことを好きと言える自信があるくらいに、瑞希のことが好きなんだから。

 それが質問に答えない理由にはならないので、僕はとりあえず思いついたところから上げていく。


「なんて言うんですかね・・・ぴょこぴょこしてるんですよ、瑞希って。それでもってフワフワしてるっていうか、小動物みたいっていうか、そんな愛らしさにまず惹かれました」


「ちょっと天然っぽいものね、あの子」


「それと同時に危なっかしさも覚えたんです。だから、気が付けば僕が守らないとって思えちゃって」


 基本的に、瑞希はメンタルが強い方ではある。でも、だからだろうか、本当にダメな時はどうしようもなくダメで、壊れてしまうんじゃないかってくらい不安になる。


 不運の事故とはいえ、瑞希の通っていた会社が倒産した時、瑞希は心を閉ざしかけていた。当事者じゃない僕がどうこうは言えないが、瑞希にとって何か心の痛いエピソードがあったんだろう。涙でぐしゃぐしゃの顔になった瑞希を僕は抱きしめることしか出来なかった。


 でも、あんな日々があったからこそ、僕と瑞希の距離は近づいた。もっと好きになった。悲しみは何も悪い事だけじゃないのかもしれない。なんて、これは僕の一方的な思いに過ぎないけど。


 僕の話を聞いて、優子さんは一度クスリと笑った。その姿も瑞希にそっくりだ。

 そして、落ち着いた声音で僕に語り掛ける。


「・・・アキ君は、あの子の事、ちゃんと見てくれてるんですね」


「そんな・・・優子さんや正人さんには負けますよ。付き合ってからの月日が、親子の大切な時間に勝てるわけないでしょう」


「でも、アキ君は私たち親子が娘に対して抱いている感情とそっくり同じものを持ってる。それは、あの子の持っている私たちへの想いと同じくらいの想いで、アキ君に心を開いているってことじゃないのかな?」


「・・・そういうもんなんですかね」


「そういうものよ」


 そうは言うものの、結局それは本人の口から聞かないと分からないものだ。とりあえず広がりすぎた話をまとめるために、僕はそれを麦茶と一緒に飲み込んだ。

 

 そして、優子さんは手を止めたかと思うと、僕のいる食卓へ振り向いて料理の乗った皿をコトリと置いた。そのまま、慈しみの深い瞳で僕を見る。


「ねえ、アキ君。・・・瑞希の事、最後までよろしくね」


「・・・もちろん。だって僕、瑞希のこと好きなんですから」


 僕が覚悟を決めた顔でそう言い切ると、フフッと小さく優子さんは笑ってキッチンの方へと戻った。


「それが聞けて良かったわ。親としても女としても。・・・本当に、瑞希はいい男連れてきたわねぇ・・・」


「そんな風に言われると照れます」


「いいのいいの。男っておだてられてなんぼでしょ」


 それはそれでどうかと思う。

 でも、僕の返事に本当に満足しているのか、優子さんは比較的幸せそうな顔をしていた。だからこれ以上の文句は言わないでおく。


「おはよー・・・」


「おはよう」


「あ、おはようございます。おはよ、瑞希」


 そして目が覚めたのか、正人さん、瑞希とぞろぞろと食堂に集まってきた。美味しい匂いにつられてとかそういう奴だろう。

 嬉しそうに優子さんが一度微笑んで、その後で僕も一度小さく笑った。



 今日の天気は晴れ。また今日も、穏やかな一日が始まる。




---


 瑞希の実家を発ったのは夕方だった。

 過ぎた穏やかな時間のおかげで、僕の疲れは大分癒えていた。身体的なことよりも、精神的なことのほうが大きい。

 とりあえず、僕たちの未来のことを話せてすっきりしたのは事実だった。二人も悲しんでないなんてことはないだろうけど、ちゃんと現実を受け入れてくれた。

 あとは、僕がどれだけ瑞希を幸せにできるか、だ。


 ふと、助手席を見る。瑞希はぼんやり、窓の外の水平線を見ていた。


「瑞希、今日は寝ないんだね」


「うん。家でしっかり休むことが出来たから」


「体の方、大丈夫?」


「・・・まあ、ぼちぼち、かな。周期的なことを考えると、家に着くころに痛くなるかもしれない」


「そっか」


 瑞希は自分の身体のことをだんだん理解しているようだった。嬉しくない話だけど、そうやっていつ痛みが来るか分かって、教えてくれる方が僕からすれば助かる。

 

 ・・・そうか、明日は仕事か。


 ふと、そんなことを思い出す。普通の人間なら抱かないような感情だ。

 仕事。この間のことを考えると、少しだけ億劫になる。また、僕のいないうちに瑞希は倒れるんじゃないかって。

 でも、心配してずっと瑞希の傍に居続けるなんて選択をしたら、それこそ僕は瑞希に嫌われるだろう。間違ってる行動を、瑞希はきっと嫌うはずだから。


 だから、いつも通りでいい。いつも通りにしていよう。

 朝、瑞希におはようを言って、瑞希と二人で朝ご飯食べて、瑞希の弁当を持って会社へ行って、せっせか瑞希のために働いて、そしてくたくたになって帰ってきて瑞希の「おかえり」の言葉に癒されて、二人ダラダラしながら夜を迎えて、お休みまでちゃんと言って。


 ・・・うん。こんな日常が、やっぱり幸せなんだな。


 僕が変に笑ったのを不思議に思ったのか、瑞希は僕の顔を覗きこんできた。そして眉を顰めて問いかけてくる。


「アキ君、どうしたの? いきなり笑ったりして」


「なんでもないよ。・・・ねえ、瑞希」


「なに?」


「明日は、楽しいよ」


「?」


「明後日も明々後日も、毎日が楽しいよ。・・・だから、頑張って二人で生きよう」


 瑞希は鳩に豆鉄砲を食らったような顔を一瞬だけして、やがて優子さんそっくりの慈しむような笑顔で頷いた。


「うん。そうだね。本当に、毎日楽しみだぁ・・・」


 そして瑞希は体を反転させて、僕の左肩に寄りつく。甘えたい猫のような仕草で僕に触れて、瑞希は小さな声で呟く。


「アキ君。・・・だーいすき」


「ありがと。・・・でも、僕の方が瑞希の事、大好きだから」


「いーや、私」


「僕だ」


「あはっ。じゃあ、引き分けってことにしておこっか」


「そうだね」


 そして二人笑い合って、のんびり車を走らせていく。

 夕焼け空。日はまだ落ちそうにない。



 僕は信じないけど・・・。神様、もしそこにいるなら。

 どうか僕と瑞希のこの物語を、最後まで照らし続けてほしい。


 終わりの終わりまで、きっと綺麗な夕焼けのままで。




 

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