二日目 これから始まる幸せな物語


 次の日の朝、僕はいつものように、鼻腔を突く美味しそうな匂いで目を覚ました。

 食卓に向かうと、瑞希が朝ご飯を作って待っていた。

 今日も今日とて、同棲生活の一日が始まる。もともと僕たちは結婚を間近に控えていた人間で、話も通っていた。


 いつもと変わらない、シンプルなものが並んでいる食卓は、昨日、まるで何事もなかったかのような雰囲気を醸し出している。


 でも、過去は変わらない。瑞希の命のカウントダウンは始まってしまっている。

 それへの不安を顔に出さないようにしながら、僕は瑞希に声を掛けた。


「おはよう」


「おはよ、アキ君」


「体調はどんな感じ?」


「うん、大丈夫だよ。二、三時間に一回、チクリと胸が痛むくらい」


「そっか」


 もともと、病院へは救急搬送で行ったわけではなかった。

 瑞希は前より、時々胸が痛むことを僕に伝えてくれていた。大事を取ってそれを検査したら・・・あの結果になったってわけだけど。

 

 だから今、瑞希が言うその痛みは、言えばこれまで通りというにふさわしかった。

 ・・・気づかなかったら、もっと辛い未来が訪れたのかもしれないな。


 ある程度の片づけを終えて、瑞希は食卓の自分の席につく。その向かいの席に俺も座った。

 それから瑞希は、若干の不安を隠しきれてない僕の瞳に気が付いたのか、目を輝かせて明るい口調で放った。


「とりあえず、今まで通りだから大丈夫。それよりもほら、今後のことを考えよ? やりたいこと、いっぱいあるんだ」


「例えば?」


「この間オープンしたばっかの店は外せないよね。ずっと雑誌でチェックしてたし。あと、そろそろ時期が時期だし海にも行きたいかなー」


「でも瑞希、泳げなかっただろ?」


「うーん、そうなんだよねぇ。小学校の頃のプールの25メートルも怪しかったし」


「それでも、楽しみ方なんていっぱいあるよな」


「そう、それ!」


 瑞希はビシッと指さして、それいいねと僕に言う。

 ああ、本当にいつもの瑞希だ。

 その無邪気な笑顔と、少し的外れた意見に触れるたびに、心から思う。


 だから今日この日だって、いつもと何一つ変わらない平穏な一日なんだ。


「とりあえず、やりたいことリストか何か作ろう。・・・そんでもって、全部叶えるんだ」


「うん、そうしよ!」


 瑞希は憂う表情を見せることなく、見慣れた笑顔でうなずいてくれる。だから僕も、いつも通りでいることにしよう。

 どこまでできるか、だとか、どこまで踏ん張れるか、とかじゃない。やるんだ。


「とりあえず、冷めてもあれだし、朝ご飯、食べちゃおうか」


「そうだね」


 また今日も、何気ない朝が始まる。


---



 朝食を終える。

 僕は食器洗いを買って出たが、「私がやりたい!」だなんて瑞希が言うもんだから譲ることにした。今もキッチンで、瑞希は鼻歌混じりに洗剤の泡と格闘している。


 僕はその間に、一度寝室へ行くことにした。どうしても、電話を掛けないといけない相手がいる。

 スマートフォンに慣れた手つきで番号を打ち込む。それからしばらくして、電話に反応があった。


「もしもし。どうした春田、今日お前は休みだろ?」


「おはようございます、古里さん。ちょっと、お願いがありまして」


 電話相手の古里さんは、僕の会社の上司だ。今時珍しい、いわゆる部下想いの上司ってやつで、休日でもこうして親身に電話を取ってくれたりなんかする。


「長くなりそうだな。・・・ちょっと待て」


 その言葉のあと、しばらく電話の向こうの古里さんは無言になった。それから少しして、音がクリアになったところから通話が再開する。


「待たせたな。嫁と娘がその場にいたから移動してきた」


「わざわざすいません」


「それで、本題はなんだ? こんな休日に電話をかけるくらいだ。世間話なんてする質じゃないだろう、春田は」


 少々心配そうな声音が、機械の向こうから聞こえてくる。古里さんは、電話越しでも僕の状態を察してくれるようだった。

 そのやさしさに感謝しながら、僕はまずお願いから述べることにした。


「・・・すいません、古里さん。無理を承知でお願いします。・・・これから一か月、休みをください」


「・・・理由を聞こう」


 古里さんはいいだろうと二つ返事をしてくれることこそなかったものの、頭ごなしに僕の要求を否定しなかった。やっぱり、この人はどこまでも優しい。


「僕の妻が、余命一か月の宣告を受けたんです。・・・延命は出来るそうですが、本人はそれを拒んでて・・・。だからせめてその一か月間を、彼女にとって最高のものにしてあげたくて」


「・・・ちょっと待て、いつ結婚した?」


「昨日です」


「余命宣告を受けたのは?」


「・・・昨日です」


「行動力の化身だな、春田は・・・」


 通話越しにも、古里さんが頭を掻いて困っている様子が伝わってきた。我ながら、昨日の行動は本当に大胆だったと思う。後悔こそないけど。


「なので今日この電話は、結婚報告も兼ねて・・・」


「無理があるだろ」


「・・・ごもっともです」


 さすがにこれはやりすぎだと、古里さんから注意を受ける。それでも、雷を落とすほどじゃないだけ、この人の優しさがまた滲み出てくるわけだけど。

 古里さんは一つため息をついて僕に淡々と語った。


「春田も分かってると思うが、社会はそんなに甘くはない。休みをくださいと願っても、それが通らないのが当たり前だ」


「ですよね・・・」


「・・・が、今回は別だ。俺が融通を効かせておく。一か月全て休みとは言えんが、有休を当ててうまくお前の休みを増やしておく。週一、二回は働いてもらうことになるかもしれんが、尽力はする」


「本当ですか!?」


 僕は寝室に移動した意味も考えずに大きな声を上げた。少し経って我に返って、あっと小さく声を上げる。通話越しに古里さんが苦笑しているのが聞こえた。


「人間にはな、譲れない大切な時ってのがある。俺も、仕事仕事と熱心になってたせいで、嫁の出産に立ち会えなかったからよ。・・・だから、同じように大事な時を失う人間を増やしたくねえんだよ」


「古里さん・・・」


「だからまあ、なんだ。お前も嫁さん泣かすんじゃねえぞ。これからの休みは、そのために使え」


「ありがとうございます!」


 本当に、涙が出そうだった。

 こんな優しい人が、近くにいてくれてよかった。今なら心からそう思える。


 と、感傷に浸ってると急に抜けたような声で古里さんが俺の名前を呼ぶ。


「そう言えば春田、結婚祝いとかなんかいるか?」


「は?」


「いや、俺も部下が結婚するのは初めてでな・・・。どうすればいいか分からないんだ」


 古里さんは困ったようにハハッと笑う。優しさだけでなく、茶目っ気まで持ってるとは・・・。

 泣きそうになっていたのが馬鹿らしくなって、僕はすがすがしい気持ちで古里さんに答える。


「大丈夫ですよ。・・・この電話を取っていただいたことが、結婚祝いだと思ってますから」


「そうか。ならいいんだが。・・・結婚式は、しないのか?」


「たぶん。・・・やっても、二人きりかと」


「分かった。陰ながら祝福させてもらうよ」


 柔らかい、包み込むような声が電話越しに聞こえる。本当に、この人には助けられてばかりだ。いつかお礼しないと。


「それじゃ、俺もそろそろ仕事だ。切るぞ」


「あ、はい。朝早くからありがとうございました」


「おう。・・・幸せに、な」


 そう言い残して、通話はプツリと切れる。僕は一度息を大きく吸い込んで、腰かけていたベッドから立ち上がった。

 そろそろ食器洗いも終わってるはず。僕はその足でまたキッチンの方へと向かう。


 瑞希はとっくに食器洗いを終えて、食卓の自分の席に座っていた。そこで机に突っ伏している。

 ・・・けど、どこか元気がないように思えた。僕は近づいて声を掛けてみる。


「瑞希ー?」


「・・・あっ、電話終わった?」


 どうやら僕が電話をしていたことに気づいていたようだった。あれだけ大きな声でリアクションなんかしていたわけだから、当然と言えば当然か。

 それよりも、瑞希の息が少し上がり気味なことに違和感を覚えた。僕はそっと手を伸ばして、瑞希の額に手を当てる。


「アキ君、何を・・・?」


「・・・熱いじゃん」


 瑞希は、熱を出していた。さっきまでケロリとしていたから、気づかなかった。

 けど今よく見てみると、頬はやんわりと紅潮し、息は弾んでいた。すごく苦しそう、とは言えないけど、少なくとも調子は良くないはずだ。


「あはは・・・ごめんね」


「全く」


 僕は有無を言わさず机に突っ伏していた瑞希をお姫様抱っこして、寝室まで運び込んだ。そしてしっかりと敷布団の上に乗せ、上から掛け布団をかける。


「全く、そうやって無理してちゃ、やりたいことも出来ないよ」


「あはは・・・ごめんね。・・・でも、そうでもしないとアキ君、お仕事あるし」


「心配しないで。さっき上司と話して、休みを入れてもらったから」


 僕がそう言うと、瑞希は目をパチクリさせて驚いていた。


「えっ?」


「毎日、とはいかないけど、この一か月瑞希と一緒にいるために休みを減らしてもらったから。・・・だから、安心して。僕はずっと、瑞希の傍にいるから」


「そっか。・・・そっかそっか。嬉しいなぁ・・・」


 瑞希は本当にうれしそうに、顔を掛け布団の中に埋めた。そして籠った声で続ける。


「これからアキ君と、ずっと一緒なんだぁ・・・」


「夫婦だし、当然。・・・だからさ、今日は休んで」


「うん、そうする」


 それからしばらく、僕は瑞希の傍にいた。少しもしないうちに、瑞希はすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。特に苦しげな様子もなく眠れているようだ。


「・・・無理だけは、しないでよ」


 僕は幸せそうに眠る瑞希をあとに寝室を立ち去る。やれるだけの仕事を先にやっておきたかった。

 

 ドアを閉める直前、もう一度瑞希の方を振り返る。

 口の端を上げて、幸せそうなだらしない顔で眠っていた。



「・・・絶対、幸せにしてみせるから」


 そう呟いて、ドアを閉める。



 だから今は・・・おやすみ、瑞希。





 



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