酔わない月と眠らない太陽

しましま

運命なんて言えないけれど

 瞳が引き込まれるような、暖かくて優しいまんまるのお月様。煌々として優雅で美しくて……。

 そんな優美な月光に照らされる君の横顔に目を奪われながら、グラスの氷をぐるりと回した。


 コツンーー。僕の肩を枕に寝息をたてる君。

 ベランダのベンチに君と二人。中秋の晩はほんのりと涼しく、穏やかな空気と静けさは時を長く感じさせる。

 グラスに軽く口をつけ、君の頭を枕に静かに目を瞑った。


 頑固で強がりで素直じゃない。

 そんな僕だから、いつだって伝えたい気持ちもこういう時にしか伝えられない。


「いつもありがとう」


 ちっぽけな声が夜風に呑まれて消えていく。


 君は覚えてるかな?

 初めて僕らが出会った時のこと。


 ーーありがとうございます。


 その言葉と優しげな微笑みが始まりだったんだ。



 心は闇に呑まれたように暗く、見える世界に色はない。

 腕に抱えた紙の束と、とぼとぼ廊下を歩いていた。


 きっと心も身体も限界だったんだと思う。誰に知られるでもなく、誰に必要とされるでもなく、ただ誰にでもできる作業を淡々とこなす日々。

 人の温もりは何処へ。閉じた世界に一人、何を目指すでもなく歩いていた。


 ふとした時、するりと紙の束が腕を抜けた。辺りに散らばる出来損ないの資料。まるで自分を見ているようで、咄嗟に伸ばした手が空中で止まった。


 もういいかな……。

 このまま全てを放り捨てて、人生という迷路から逃げ出してしまっても。


 そうやって諦めて振り返ろうとした僕の視界に、すっと誰かの手が舞い込んできた。

 辺りに散らばる紙クズ同然の資料を一枚、また一枚……。


 呆然としている僕は、その瞳にどのように映っていただろう。

 誰かが拾ってくれるのをただ待つだけの卑しい人。もしくはただただやる気のない男。


 きっと何かしら思いながら、その紙の束を僕に手渡したんだと思う。


 でも、僕の目を真っ直ぐと捉えるその瞳には蔑みも哀れみも映っていなかった。


 そこにあったのは光。

 色のない世界を照らす火のような……太陽のような暖かな光だった。


 ーーこの資料、あなたが作ってたんですね。


 ーーとっても分かりやすくて助かってるんです。


 ーーいつもありがとうございます!


 僕は救われたんだ。


 いつか君は僕との出会いを運命だって言ってたよね。

 でも僕は違うと思う。


 これは運命なんて美しくて曖昧なものじゃない。


 君の明るさと温もりに僕が惚れた。

 君と言う人間に恋をしたんだ。


 あの日から僕の毎日はずいぶんと変わったよ。


 僕の仕事のおかげで笑顔になる人がいる。誰かの為に仕事ができている。

 そんな気持ちが僕の心を暗い迷路から解き放ったんだ。


 時には会社で君と会うこともあったよね。

 偶然だなんて言ってたけど、あれは嘘。

 君がそこにいるって知ってたから、僕もそこに行ったんだ。君の光に包まれたくて。君の色に染まりたくて。


 君と付き合うことになったのは、出会ってからどれくらいだったっけ?

 ううん、ちゃんと覚えてる。

 ちょうど三ヶ月が経った日。今日と同じ、秋の宵月を眺めた夜だった。


 本当は僕から想いを伝えたかったけど、話しかけようとして、君と言葉が重なった。お先にどうぞと譲って、嬉しくも後悔したことは忘れないよ。


 君との日々はとにかく明るくて楽しかった。

 君は僕にないものをたくさん持っていて、僕の知らない景色を幾度となく見せてくれた。


 本当に君を好きになって良かった。

 その気持ちは今でもずっと変わらない。


 いつだったかな?

 いつも微笑みを絶やさない君が、一度だけ泣いて怒ったことがあったよね。


 きっかけは僕の一言だった。


 ーーどうせ僕は誰にも必要とされてないから。


 どんな会話をしてたかは忘れたけど、きっと仕事で嫌なことがあったんだと思う。

 自嘲気味に冷めきった笑みを浮かべる僕に、君は僕に震えた声で言ったんだ。


 ーーそんなこと言わないでよ……。


 ーー私にはキミが必要なんだよ……?


 ーー私じゃダメなのかな……。


 ーー私はキミじゃなきゃだめなのに。


 ーーキミのこと、こんなに大好きなのに!!


 僕の胸を拳で叩きながら泣き濡れた顔を押し付ける君に、僕は何も言えなかった。


 しばらく君を抱きしめて、その小刻みに震える肩越しに涙で滲んだ満月を見つめた。


 そしてついに口を出た言葉は、結婚しよう、のただ一言だった。


 我ながら酷いプロポーズだったと思う。

 それが酷い思い出にならなかったのは、僕の胸の中で確かに聞こえた、うん、っていう君の返事があったからだ。


 君には感謝の言葉しか出てこない。


 真っ暗な世界に光をもたらし、色のない世界を色付けた。

 最初から最後までダメな僕だったけど、そんな僕を君は受け入れてくれた。


 だから今一度、君に言いたい。



「いつもありがとう」



「僕を選んでくれてありがとう」



 小さな声は再び夜風に呑まれ、僕はまたグラスに口をつけた。

 満月の輝きは眠りについた太陽を照らし、穏やかな空気と静寂は僕らを永遠へと誘う。


 最後に君のおでこにそっとキスをした。

 眠ったふりをする君に、酔ったふりをして。










 まんまるのお月様の下、キミの肩を枕に眠ったふりをする。

 ふいに聞こえた、いつもありがとう。

 頑固で強がりで素直じゃなくて、でも優しくて温かいキミの声。


 私もちゃんと覚えてる。

 キミと初めて出会ったあの日のこと。


 実はね、キミが初めてっていうあの日は私にとっては初めてじゃなかったんだ。

 私の初めてはそれから一ヶ月くらい前だったかな。


 

 ただただ毎日仕事をこなしていく中で、ふと気になったことがあった。

 私が毎日使っているこの資料。

 みんなに同じ内容のものが配られているはずなのに、よく見るとみんな違うものを持っている。


 右利きの人と左利きの人で違ったり、目の悪い人のは字が大きかったり。

 たかだか数日で使い捨てられる資料なのに、どこまでも優しい資料。


 いったいどんな人が作ってるんだろう。

 どうでもいい事のはずなのになぜかとても気になった。


 私は資料をその人から直接貰おうとレターケースの横で待つことにした。

 そして、その時がやってきた。


 廊下の向こうから近づいてくる人影。

 紙の束を持つあの人がきっと……。


 でも、踏み出しかけた足がそれ以上前に進むことはなかった。


 暗い。重い。苦しい。


 どこまでも闇に沈むようなその表情に、私はただ立ち尽くすばかりだった。

 気がついた時には、その人は私に背を向けてとぼとぼ帰っていった。


 あんなに優しい心を持った人がなんで……。

 

 その後の作業で資料を見るたび、あの表情が目の奥に浮かんだ。


 酷いよね、私。

 勝手に期待して、勝手に落胆して……。


 でもね、その時に思ったんだ。

 やっぱりあの人は、キミは報われなきゃいけないんだって。人を幸せにできる人が、幸せになるべき人なんだって。


 それから私は毎日のように、レターケースの横に立ってキミが来るのを待ってたの。


 でも、一日、二日、一週間……毎日そこに立っていたのに、キミに声をかけることはできなかったんだ。


 声を出そうとしてやめるの。

 なんて声を掛ければ良いのか、どんな風に声をかければ良いのか分からなかったから。


 それでも毎日めげずに立っていたらさ、遂にチャンスが来たんだ。


 いつも通り暗い表情でとぼとぼ歩くキミの手から、資料の束が滑り落ちたの。


 辺りに散らばる資料たち。

 それをゴミクズを見るような目で見つめるキミ。


 その資料はキミの優しさが詰まった大切なものなのにってとても悲しくなって、でも私は目の前に落ちた一枚の資料に手を伸ばしたんだ。


 キミに近づくように、一枚、また一枚。


 たぶんキミのことだから、何もしなかった自分を後ろめたく思ってるんじゃないかな?


 でもね、それは違うの。


 初めてキミが私のことを見てくれた。

 何も映ってなかった瞳の中に、私が居ることがとにかく嬉しかったんだ。


 それで、とびっきりの笑顔で資料を渡して、私はその日までずっとため込んでいた思いをキミにぶつけたの。


 ありがとうって。

 キミに助けられてる人が居るんだよって。


 その日から、キミはどんどん変わっていった。

 身体から溢れ出てた重苦しいオーラも、深い闇のような表情も、気がついた時にはなくなってた。


 時には会社で会うこともあったよね。


 あれね、実はキミの目に入るところに必ず居るようにしてたんだ。

 廊下の角に隠れてみたり、わざと遠回りをしてみたり。


 偶然だって二人で笑ったけど、キミの笑顔が見たくてついた嘘だったんだよ。


 あれから三ヶ月くらいだよね。

 私たちが付き合うようになったのって。


 今日と同じような、まん丸なお月様を眺めてた。

 絶対に今日伝えるんだって張り切って、声を出しかけたらキミの言葉と重なったんだ。


 もう心臓はバックバクで、キミに聞こえちゃうんじゃないかって心配だったんだよ?


 そんな事はつゆ知らず、でもキミは私に話を譲ってくれたの。

 やっぱりキミは優しかった。


 好きになって本当に良かった。

 今もずっと、キミのことが大好きだよ。


 いつもキミの前では笑顔でいるようにしてたけど、私が一度だけ泣いて怒ったこと、忘れてないよね?


 ーーどうせ僕は誰にも必要とされてないから。


 本当に悲しかった。


 あんなにキミと一緒にいたのに。


 あんなにキミに好きをぶつけたのに。


 あんなにキミが必要だって伝えたのに。


 何も伝わってなかったんだって、悲しくなった。


 本当は何か嫌なことがあったんだって分かってた。

 なのに私はキミに酷く怒ったんだ。


 私のこと、嫌いになったよね。

 ううん。嫌われて当然なんだ。


 散々怒鳴って冷静になって、後悔が胸の奥から込み上げてきた。

 でも、キミは私を抱きしめて言ってくれたんだ。


 ーー結婚しよう。


 悲しさも後悔もすべてがなくなって、私は泣きながら小さく、うん、としか言えなかったけど、とても嬉しかった。


 キミは酷いプロポーズだったなんて思ってるかもしれないけど、私にとっては幸せなプロポーズだったよ。


 いつか私はキミとの出会いを運命だって言ったよね。

 でもね、あれはやっぱり違うと思う。


 これは運命なんて難しくて複雑なものじゃない。


 キミの優しさと温かさに私が惚れた。

 キミって言う人間に恋をしたの。




 ーーいつもありがとう。


 ーー僕を選んでくれてありがとう。


 夜風をすり抜けた小さな声が私の耳に届く。

 眠りについた太陽を満月の優しさが包みこみ、穏やかな空気と静寂は私たちを永遠へと誘う。


 少しだけ朱に染まった頬をキミに擦り寄せた。

 酔ったふりをするキミに、眠ったふりをして。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

酔わない月と眠らない太陽 しましま @hawk_tana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ