〈8〉

『すぐに行く。どこにいるの?』

「……返信、はえー」


 翠は思わず吹き出した。ああ、愛されている、と実感した。


 公園のネームプレートを見つけ、名前と場所を特定して送信すると、ふいに彼女を試したくなって、


『何でそこまで俺を庇うの。こんなに馬鹿な生き物なのに』と送った。


 するとまたすぐに受信メールが届いた。


『あんたのことが好きだからって理由じゃ駄目なの?』


 舞衣の文章は、迷いがなかった。きっと彼女は、言いたいことを言いたいだけ、好きなように伝えられる力を持っているのだろう。


 意地で何か洒落た台詞を送りたかったが、ありがとうとか、嬉しいとか、そんな使い古された言葉では納得できなくて、どんな文章を送ればいいのかしばらくアイフォンを握りしめて考えていると、影が下りた。


「翠」


 舞衣が、息を切らして、帰りの支度の姿で自分を見つけ出してくれた。


「……本当に、神出鬼没、だな、お前。ここ探すの、大変じゃ、なかった?」

「この公園、地元じゃ有名ですぐにわかったから。よかった、すぐ会えて」


 彼女はそう言うと、はっと気づいたように、翠の顔中に滴る汗を見て、ハンカチを取り出して翠の顔を拭いた。


「大丈夫? あんた、まさかここまで走って……」

「……うん」


 翠が俯くと、舞衣が背中をさすってくれた。隣に座り、呼吸を整える翠を手厚く介抱した。


 ずっとこうしてほしかった。

 同情ではなく、理解を示してほしかった。


「だいぶ落ち着いてきた?」


 舞衣の甘く響くアルトの声に耳を傾けながら、翠は「もう、平気」と精一杯の強がりを見せた。


 舞衣はほっとしたように息を吐いた。


「ああ、なんか安心したら喉渇いた。ジュース買ってくる」


 舞衣はそう言うと、公園内の自動販売機で飲み物を購入した。翠の分まで缶ジュースを渡すと、再び隣に座った。


「ジュース代、払うよ」

「サンキュー。じゃあちょうだい」


 百三十円を渡すと、二人は冷たい風を頬に受け止めながら、飲み物をごくごく飲み込んだ。


「温かいほうがよかったんじゃね?」

「いやあ、だって走ったら暑くなったんだもん。あんたもでしょ?」


 そう会話しているうち、あの教室にいた時の、震えるような怒りは、いつの間にか治まっていた。今の自分は、驚くほど落ち着いていた。


「俺、家出したんだ」

「うん」


 二人は同時にジュースを飲み終えた。


「どこにも居場所がなくて。家が嫌で、学校が嫌で」

「うん」

「どうしてだろう。あんなにあいつのことが嫌いだったのに、あいつのいるあの家が息苦しかったのに、あいつと同じようにウジウジいじけている。自棄になっている。やっぱり血の繋がりは無視できないのかな」

「嫌いってレベルじゃなかったでしょ」


 舞衣は翠を見つめた。

 翠もまた舞衣を見つめる。


 どくどくと心臓が静かな鼓動を立てている。

 彼女は言うつもりだろうか。翠のうちで眠っていた真実を。


「妹さんを殺したいと思ったこと、あるんじゃないの?」


 舞衣の挑むような瞳が、翠を捉えた。


「いつからだ」


 翠は問い返した。


「いつから気づいた」


 声がかすれていることに自分でもわかった。目の前の少女が、得体のしれない女に見えた。

 舞衣が答える。


「文化祭の時。保健室送りになったあんたを迎えに来た、あの子を見た時の表情で。派手に暴れていたわね。目つきイッちゃってたわよ」


 翠は目を伏せた。一呼吸おいて、ぽつぽつと話し始めた。


「あいつの存在は、俺には重すぎた」


 しんと静まり返った空気の流れる中、翠の声が死の翳りのように陰鬱な色を伴って、舞衣の耳に届いた。


「小学生の頃、俺たちは周りの子どもについていけなくて、しょっちゅう身体を壊しては、一緒の部屋で寝かされていた。

 あいつはそれが嬉しかったらしい。俺のそばにいる時は、いつも饒舌になっていた。

 四年の時だった。あいつが訊いてきた。

 私のことを好き? 

 急に白けた気分になった」

「あなたたちに友達はできなかったの?」


 舞衣の素朴な質問に、翠は苦笑した。


「世の中、他人を助けてくれる人間なんて、そういるものじゃないんだよ。俺たちは特に、人間関係を築くのが下手だったから」

「妹さんは、友達ができないまま、あなたに寄りかかり始めたのね?」


 舞衣が言葉を選びながら慎重に訊くと、翠の苦笑はさらに歪み始めた。美しい顔立ちが、忌まわしい過去のせいで険しい色になっていた。


「俺もまたあいつに依存していた。嫌ならさっさと友達を作って、距離を取ればいいのに、それができなかった。俺たちは家でも学校でもくっついていた」


 あの年は厳しい寒さだった。三学期の学校で、真冬の冷たい風を受けながら、妹と久しぶりに出た体育の授業。


 持久走だった。四年生になって初めて受けるもので、二人はとりあえず参加してみた。


 スタートラインに立ち、走り始めて数分も経たないうちに、妹の息が荒くなった。それに合わせるように自分も息が苦しくなった。結局二人は完走できずに、途中で倒れて保健室送りになった。


 先生が二人を捜し出してくれて見つかった時、すでに時刻は終了ベルが鳴ったあとだった。クラスの皆は待たされていて、露骨に嫌な顔をしていた。


 保健室に運ばれる時、クラスメイトの声が聞こえた。はっきりと。


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