〈6〉
「あのさ」
翠は、一階に下りて中庭へ出た舞衣の背中に声をかけた。
「別に、あの男のこと何とも思ってないから。好きでもないやつに勝手なこと言われても、どうでもいいから」
舞衣は翠のほうを振り向いて、つぶやいた。
「嘘ばっかり」
彼女の目は真剣だった。
「他人の言葉が一番怖いくせに」
翠は、ぐっと黙った。舞衣の甘い声が一段低くなって、重いトーンになった。
「本当は、恋しいんでしょ? あのデイケア組が」
舞衣は文庫本を抱えて、再び翠に背を向け、日の当たる場所に出た。
「私には虚勢はらないでよ」
「虚勢なんかじゃない」
意識せずに出た声は、情けないほどかすれていた。
「強くなりたかったんだ。できる人間だって思いたかった」
俯いて、地面に生えている芝生を見つめる。人工的に植えた草。人の手で作り出された草。
「あそこは、ぬるま湯みたいで、気持ち悪かった。だから出て行きたかった。逃げたいわけじゃなくて、先に進みたかった」
その進んだ先に何があるのか、考えもしないで。
翠は顔を上げた。舞衣がこちらを見つめていた。舞衣の茶色い髪が、太陽の光を浴びて、ふと透けたような色になった。
「変わるよ」
舞衣の声は力強かった。
「一学年上がれば、きっと皆、大人になる。一つ年を重ねるだけで、こんなに違うんだから。だからこんなことで悲しまないで」
「悲しくなんかない」
翠は懸命に否定した。こんな些細な悪口でショックを受けている自分が許せなかった。
舞衣は眉尻を下げて笑った。しょうがないなあ、と翠に近づき、手を取った。
「昼休み終わっちゃうから。今日はここまで。明日また会おうね」
「……うん」
舞衣は翠の手を強く握った。そして合図をするようにニコッと笑うと、手を離し、中庭からホールに入る中扉を開け、校舎へ戻った。
五時限目の予鈴が鳴るまで、翠はしばらくそこに佇んでいた。
○
学生寮の食堂で、翠は隅のテーブル席に座って、一人きりの夕飯を過ごしていた。
野菜がたっぷりと入ったビーフシチューを口に含みながら、家族からの手紙を読んだ。
午後七時から九時まで、夕食の時間が決められているので、翠はいつも一番乗りで、がらんと空いている食堂に足を運んでいた。
テーブルに両親の綴った手紙を置く。料理担当の先生が作ってくれるものはどれも美味しかったが、やはり母の少し薄味気味の味付けが、この料理を食べるごとに、思い出されてしまうのだった。
父と母の文面は似ていた。寒い日が続くので体調に気をつけることと、たまには家に顔を出すということ。そして、学校に馴染めたかということ。
翠はその文に決まった返事を書く。学校では何も問題なく日々を過ごせています。友達もできました。寮ではその友達と一緒にくだらないことで笑いながら生活しています。だから何も心配しないで。
まるで演劇のようにすらすらと返事の内容を嘘で固めることに、もう感じるものはなくなっていた。
妹からの手紙が来ていた。花柄プリントの便箋。翠はそれをグシャリと丸めて、ポケットに押し込んだ。
夕飯を食べ終え、トレイを返却カウンターに戻し、両親の手紙だけを大事に持って、ワンルームの部屋へ行った。
廊下の突当りにある大型のゴミ箱に、妹の手紙をビリビリに引き裂いて捨て、二通の便箋だけを手に持って階段を上った。
自室へと入って、勉強机に手紙を置いた。父と母、それぞれ内容が被らないように、先ほど用意した言葉を文字にして綴った。
あくまで両親にあてた手紙として。妹のことだけは、絶対に書かないように。
返事を書き終えて、続けて明日の授業の課題をやり終えていた。予習も復習もまんべんなくして、完璧に準備を整えると、もう寝る時間だった。
ベッドに寝転がりながら、今日借りた本を、第一章の部分だけ読んで、電気を消した。
周りの皆は、一階の談話室のテレビで、こっそりと持ち込んだゲームでもしているのだろう。周囲の部屋にまだ誰の気配もなかった。
寮に通う生徒は、何かの推薦で地方から来た人がほとんどだった。互いに出身地を言い合い、夢を語り合い、あっという間に仲間になった。
翠はその輪には入れなかった。
初めからわかっていたことだったが、胸を締め付ける何かが緩むことはなかった。一瞬でも油断をすれば、深い悲しみの落とし穴に突き落とされてしまいそうだった。
名前もない何かに。
翠は身体を丸めて、早く眠気が来ることを願った。
真っ暗な部屋の中で目をつむると、押し寄せる何か底のない感情が、漂ってきた。
その言いようのないモヤモヤは、翠を囲って離さなかった。そこから逃れるために、周りの皆に負けないように、成績だけは上げたかった。
寝つきの悪い体質のせいで、なかなか眠れなかったが、何とか朝を迎えた。
○
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