〈5〉

 三階に着き、南側の廊下に面している、木の色をした大きな扉を開く。

 日の光が当たって、少しだけ明るい色合いに染まったドアノブを下げる。

 カチャン、と軽やかな音がした。


 中に入ると、昼休み中の図書室はけっこう生徒がいて、周りに注意してささやき合いながら、静かに本棚を探す者であふれていた。

 この部屋は一階の保健室の次に広い大部屋で、蔵書数はちょっとした自慢になるほどだ。


 文庫本のコーナーに寄ると、二人は自然と各々好きに行動し始めた。


 翠は巨匠と名高いミステリー作家の列へ。舞衣は外国のファンタジー文学のところへ。


 しばらく本棚を眺め、適当なものを物色し、受付カウンターで図書カードに貸出しのデータを入れてもらうと、空いているテーブルでそれぞれの持ち出した本を見比べた。


「アガサ・クリスティーか。王道だね」

「まだ読み始めて間もないから。もう少ししたらマイナーなのも読んでみるつもり」

「ミステリーって、本格派とそうじゃないやつって区別されているけど、あんたはどっち?」

「どっちもいいところがあると思うから、両方だな」

「そうなんだ。私はこれにしたー」


 舞衣の差し出した本は、外国でベストセラーになったシリーズものだった。


「それ、どっちかっていうとSFじゃね?」

「え、マジ? ハイファンタジーかと思ったんだけど」

「俺、SFとハイファンタジーって、あまり区別がつかないんだけど」

「私もー。読書家から見たら、私たちって本のミーハーかもね」


 舞衣がおかしそうにクスクス笑う。その横顔を見て、鼻筋のラインがきれいだな、と思った。


 別のテーブルで勉強している生徒たちがいるので、ひそひそささやくような声で言葉を交わしていたが、知らず盛り上がっていたようで、ちらりと視線を向けられた。


 あわてて声を落として、作家のプロフィール欄のページをめくる。


 翠も舞衣も、壮大な物語を紡いだ作者の著作歴を見るのが好きだった。


 どこで生まれたのか、どんな学歴だったのか、どのようにして作家デビューしたのか、それこそ一人の人生の物語を見るみたいで、わくわくした。


 最初にそのことを舞衣に告げた時も、


「こんな趣味持ってるの、私しかいないと思ってた」と彼女はパッと花が咲いたように笑った。


 気がつけば、二人は一緒に図書室へ行く仲になっていた。


「この作家、遅咲きだったんだね。四十代でデビューだって」


 舞衣がこっそりとささやいた。生まれ年とデビューした年を計算していたらしい。


「この人は三十代デビューだな」


 翠も手にした作家のデビュー年を数えた。


 楽しいと思った。

 彼女といる時間が、いつしか癒しになっていた。


 自分一人きりで図書室に通って本を物色していたあの時が、まるで遠い過去のように思えた。


 無理にしっかりしなくてもいいというのは、飾らないでいいということは、翠にとって大きなことだった。


 あら、かわいい子ね。


 初めて会った時、彼女はそこらへんにいる野良猫を見つけたかのような調子で、言った。


 デイケア組?


 彼女が何の気なしに尋ねたので、翠はこくりとうなずいた。


 ボランティア部に遊びに来ていた彼女とは、その日は二言三言交わしただけで終わった。


 しばらくしてまた会い、日常会話のような他愛のない話をして、別れ、そして数日後、再び会って少し深い話をして、気がつけば自分の隣に彼女は歩いていた。


 そして同時に、妹はどこか遠くへ行った。


 自分が遠ざけた。後悔はなかった。むしろ清々しかった。

 

 それなのになぜ、時々、胸がつぶされそうに痛むのだろう。


 本を開き、文字を追うことに集中し始めた舞衣を邪魔しないように、自分も読書にふける。お互いがお互いのペースを乱さないこの関係が、何よりも心地よかった。


「保険係になんかならなきゃよかったなあ」


 ふいにその言葉だけが翠の耳に大きく響いた。周りを気遣うひそひそささやくような声だったのに、なぜか矢を放つようなスピードで突き刺さった。


「うちのクラスにさあ、移ったやつなんだけど、これが大変で」


 今朝、翠を保健室まで連れて行った彼の声だった。男子にしては少し抑え目な声が、溜め息交じりに吐き出された。


「体育なんかできるわけがないのに、聞かん坊みたいに出まくってさ、それでお約束のように倒れるの。笑っちゃうだろ」


 彼の友達が一笑した。


「女子たちがさあ、もう、かわいそうって感じで、優しくしてて。皆が皆そいつの面倒見てくれてるの。どこの箱入り息子だよ」


 まあ、顔がいいから。まさか一番楽そうだった係が、こんなことになるなんて思わなかったよ。


 二人の男が笑い合っている。翠のすぐ後ろで、翠と同じように本棚を眺めている。そして一冊の本を取り出して、翠のすぐそばを、気づかずに通り過ぎていく。


 一瞬、彼の持っていった本の背表紙が見えた。研究資料のようだった。


「外に出ようか」


 舞衣の声が聞こえた。聞き心地のいい柔らかな甘い声。


「今日、いい天気だし」


 翠が答える間もなく、舞衣は席を立ってスタスタと歩いていった。


 翠は凍りついて動かなくなっている全身を何とか動かし、強い衝撃を受けたような痛みに揺れている頭を抱えながら、彼女に追いつこうと図書室を出た。


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