〈13〉
気温が下がったなと、週末の天気予報を見て、佳純は夕莉に連絡しようかどうか迷っていた。
文化祭明けの学校は皆、何かに燃え尽きたような様子で、だらだらとした空気が流れていた。もっともその様子が顕著なのは本校舎の生徒たちで、デイケア組の地下の校舎にいる佳純たちは、いつもと変わりなかった。
大きな学校行事は終わり、あとは冬休みを待つだけとなった。
夏央たちの学年は修学旅行があったが、九州地方に三泊四日で出かけるだけだと、特に何の感慨もなく言い切った夏央と冬華は、今ちょうどその時期で、学校を留守にしている。
文化祭のすぐあとだと、気持ちの切り替えが大変だろうな、と佳純は思いながら、もう一つの重要事項をいつ彼女に伝えようか、考えていた。
私があそこを出て行ったら、夕莉は一人ぼっちになる。
彼女の涙に濡れた顔を想像した。驚くほどすぐにその映像が頭に浮かび上がってきて、つまりそれほど、夕莉はよく泣いているということだろう。
あの子は、本当に笑わない子だ。
夕莉のことを思うと、胸がズキリと痛む。捨て犬を腕に抱いた時のような、悲しくて見捨てられない気持ちになる。
それでも佳純は知っていた。自分は彼女を置いていくと。
そして初恋の人と同じ環境に飛び込むと。
夕莉の情は重すぎる。がんじがらめになった愛だ。しかし自分も似たような人間なので、彼女を批判することはできなかった。
○
居間のソファーに体育座りの姿勢で足を抱え、テレビに映る明日の天気を見た。曇り時々晴れ。秋雨前線の通過する時期の中で、久しぶりに晴れ間がのぞくのかと思考に耽りながら、聡子の夕飯の手伝いをした。
聡子は手際よくキャベツを千切りにしている。佳純は味噌を研いで三人分の具材を取り分けた。
「もうご飯ね」と、聡子がカツを揚げて皿の上に手際よく乗せ、千切りにしたキャベツをさっと乗せた。佳純がそれを持っていき、その時にちょうど稔もやって来て、聡子が味噌汁を盛り分け、食食卓に運んだ。
夕飯の準備が整い、皆で「いただきます」とご飯に手をつけた。
何度この幸せな瞬間を経験しても、あの時、兄に抱えられて見上げた夕空の美しさは、忘れられなかった。自分の居場所は、どこなのか。佳純はまだわかりかねていた。
○
「おはよう」
夕莉に声をかけられて、自分がぼうっとしていたことに気づいた。
朝の読書時間がもうすぐ始まる時だった。ギリギリに着いた夕莉を見て、「おはよう。今日は遅いね」と笑顔で返した。「うん、ちょっとね」と言う夕莉の顔は、どこか嬉しそうだった。
一緒に登校することはもうなくなっていた。それは合図も何もなくごく自然に訪れた。どちからともなく、二人はそれぞれ好きな時間に学校へ行っていた。
ただ家へ帰る時は、相変わらず一緒だった。隣を歩く夕莉は、最近は佳純の左側を歩く癖がついていた。
担任教師が入ってきて、十五分間の読書は始まった。佳純はそろそろ読み終わるティーンズ向けの小説を広げた。
ちらりと夕莉の背中を見ると、彼女は、びっしりと隙間なく羅列された文章の本に集中していた。何やら難しそうだな、と思った。
「何読んでいたの?」
昼休み、机をくっつけて弁当箱を広げ、佳純は夕莉に尋ねた。すると夕莉はぱっと花が咲いたように笑った。
「お兄ちゃんが私に送ってくれた本」
びっくりして、思わず箸を落としそうになった。あの冷たい美貌が一瞬で佳純の脳裏に浮かんだ。
「す、すごいじゃん! 連絡があったの?」
「うん。昨日、包装されて家に送られてきたの。宛先見たら、ちゃんとお兄ちゃんの字だった。手紙もついてて」
佳純は逸る心を隠し、「へえー」と上ずった声を出した。この二人に進展があったことは何より嬉しい。翠はまだ妹のことを見捨てていなかったのだ。
「どんな本なの? 小説?」
「ちょっと昔の本。文章もいっぱいあって、内容も難しくて、挿絵もないから少しずつしか読めないんだけど……。お兄ちゃんの手紙に『最後まで読め』って書いてあって」
「じゃあ、ちゃんと読まなくちゃね」
夕莉は「うん」と照れながらうなずいた。今日は食欲もあるようで、ご飯を進めるのが早かった。
その満ち足りた表情を見て、佳純は、きちんとこの友達に、本当のことを話そうと決意をした。今の彼女になら、すべてを打ち明けてもいいと思った。
午後の授業を終えて、夕莉と並んで歩く帰路。佳純は三学期から、翠と同じ一般クラスへ編入することを告げた。移るクラス先も知らされていて、翠とは違う組だったが、移動教室の時間割次第では、鉢合わせることもあり得るということも話した。
そして、彼に恋をしていたことも。
夕莉は、もう泣くようなことはなく、ただ静かに聞いていた。
佳純としっかり目を合わせ、「そうか。がんばってね。大変だろうけど」と笑みを浮かべた。
その微笑を見て、彼女も兄と同じく、とても美しい少女なのだということを、佳純は思い知った。
なんてきれいなのだろう。
ふいに泣きたくなった。勝手に進路先を変えたのに、何一つ相談すらしなかったのに、彼女はすべてを受け入れていた。
夕莉に涙を見せたくなくて、顔をそらした。
それきり二人は黙った。しばらく肩を並べてゆっくり歩いていると、夕莉がぽつりと言った。
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