〈12〉
「私を落としたのは、五番目のお兄ちゃんね? あの時家に帰ってきたのは、あなたと、そのお兄ちゃんでしょ?」
問うと、長兄は、この世の果てのような暗い瞳を浮かべた。
「そしてきっかけは、お父さんなのね?」
長兄は俯いて、罰を受ける罪人のようにうなだれていた。そしてゆっくりと口を開いた。
「どこにでもある、ごく普通の親子喧嘩だよ。馬鹿みたいな話さ。
あの晩、あいつと父さんは激しい口喧嘩をしたんだ。原因は、何だったかな、思い出せないくらい些細なくだらないことで。
お前は部屋の隅っこで震えて泣いていた。
お前がそうなる時、俺は決まって、お前をなだめるために空を見せていた。うちの庭は広かったから、庭に出て、一番星を一緒に見つけた。お前をあやすのは俺の役目だったから。
あいつは俺たちのことをずっと見ていたんだろう。
その翌日、お前が落とされた。
理由は、父親への八つ当たり。お前が一家で重宝されていたから、あいつは、お前を落とすことで、すべてをぶち壊してしまいたかったんだろう。
俺とあいつが家に帰った時、泣きついてきたお前を抱いて、あいつは言った。
俺が見ているから、兄貴はいいよ、と。
俺は何の疑いもしなかった。
夕飯の準備をしていると、庭ですごい音がした。
お前が倒れていた。
あいつは、笑っていた。
そのあとのことは、思い出したくもない」
長兄は顔に手を当てて、苦しそうに呻いた。
「だけど、どうして……」とかすれた声で訊く彼に、佳純は「蜜柑の木」と答えた。
「蜜柑?」
「そう。五番目のお兄ちゃんからの手紙に、今も蜜柑の木を見ると、お前のことを思い出します、と書かれていたの。
蜜柑は、お前が生まれた年に植えたらしいですよ、とも。
私が助かったのは、あの木に引っ掛かったから。
うちでは蜜柑のことを気に掛ける人なんて誰もいなかった。あなたでさえ、私をあやす時は空を見せて、庭の木のことを忘れていたでしょう?
お兄ちゃんたちの中で、蜜柑の存在に気がついているのは、五番目のお兄ちゃんだけだった。
きっとあの人は、計画的に私を落としたんだわ。
殺さずにひどい目に遭わせる方法を、ずっと探していたんだと思う。
あの庭で一番大きかった蜜柑の木の上に落とせば、命が助かると思ったのでしょうね」
五兄は、いつも父親に怒られていた。気が弱くて、泣き虫の癖がいつまでも治らなくて、馬鹿にされていた兄。
彼の親に対する憎しみは、そのまま肥大して、佳純を材料に使う動機にまで至った。
「俺が」
長兄が両手で顔を覆った。
「俺が、お前をあやしていれば。もっとあいつのことを気にかけていたら」
「多分、お兄ちゃんたちに、お母さんの役目は、荷が重すぎたんだよ」
佳純の心は穏やかだった。詭弁ではなく、誰のことも恨んではいなかった。
「荷が重いのに、自分じゃ似合わないことはわかっているのに、その仕事をしなくちゃいけないことって、あるよね」
長兄は佳純の放つ言葉を、しばらく聞いていた。
顔を覆っていた手を離す頃には、いつもの落ち着きを取り戻していた。
「スケジュール帳、買ってくれてありがとう。大事にするよ」
佳純は別れを言った。買い物袋を見せて、思い切り笑った。彼を安心させるために。
長兄は何かをこらえるような表情で、無理に笑った。
「元気に暮らせ。聡子さんたちと幸せになれ」
「うん」
「今度こそ、俺たちを見返せよ」
「約束する」
佳純と長兄は、互いに手を振り合った。
血の繋がりは切れない。この先また、何かの因果で会うかもしれない。その時は、その時だ。いつか他人のように振る舞えたら、それが自分の救われる時だ。
門扉を開けて、玄関の扉を閉める間際まで、長兄は手を振り、佳純の姿を見届けてくれた。
家の中に完全に入り、彼の気配が消えた頃、佳純は、さようなら、と一言告げた。
○
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