〈11〉
待ち合わせ場所の駅のロータリーに行くと、長兄がすでに待っていた。
約束の時間の五分前に到着したのだが、長兄はそれより早く待機していてくれたらしい。そばにいる時は気づかなかったが、離れてみてわかったことがいくつかある。彼は几帳面で時間には正確な人だった。
今年で二十五になる長兄は、もう立派な大人の男の風貌に近づいていた。身体つきがすっきりとして、社会に出たての新人の頃からだいぶ揉まれた余裕のある表情が、佳純との長い隔たりの年月を物語っていた。もうこの人は他人と言っていいくらい、佳純の心は達観していた。
文化祭を終えて、いつもの気だるい毎日がやってきた秋の半ば、聡子を通して、長兄から連絡が来た。
土日でどこか会えないかという誘いを受けたのは、初めてだった。思えばあれ以来、直接的な関わりを避けてきたともいえる。何かあったのかもしれないと、佳純は、不安と期待で押し寄せ合っている感情の波に、たゆたっていた。
実際に会ってみると、話は弾んだ。長兄は気を使ってくれているのか、慎重に言葉を選びながらも、佳純から思い出話を上手く引き出せていた。
「そうか。友達できたか」
コーヒーを一口飲んで、長兄は言った。
「でもどうして、せっかく入ったデイケア組を編入してまで、一般クラスに?」
「……世界を、もっと広く見てみたいの」
怪訝な顔をされるかもしれないと思ったが、彼は佳純の回答を笑ったりはしなかった。少し黙り込み、それから吐息を一つ吐いて、昔を思い返すように懐かしげな瞳をした。
「佳純は昔から箱入り娘だったからな。父さんも母さんもひどく甘やかしてさ」
「……うん」
「俺らなんか男だから、皆放っておかれて勝手に育って。佳純が羨ましかったなあ。お前はずっと、大人の誰かにべったりだったろ?」
そう言われて、自分が保育園児だった時のことを思い出した。確かに一番気に入っていた保育士に、四六時中つきまとっていた記憶がある。
「……よく覚えているね」
「俺は物覚えがいいのですよ」
長兄が少し自慢げにかしこまった。佳純は笑って、目の前にある紅茶を口に含んだ。甘さと苦さが同時に舌に伝わって、気持ちよかった。
……やはり、彼なのだろうか?
佳純の疑心はなおも鋭い光を放って、向かい側の男を捉えていた。
佳純が窓から落とされた八歳の時、兄たちはまだ学生だった。誰があの時間帯に帰宅してもおかしくないのだ。
「……ほかの人たちは元気?」
それとなく尋ねると、長兄は目を細めて笑った。
「ああ、あいつらはしぶといから。お前が気にすることなんて何もないよ」
「そっか。ならよかった」
佳純は再び紅茶を一口飲んだ。
「変わってなくてよかった」
長兄は声のトーンを少し落として、安心するように一言漏らした。
「聡子さんたちから、お前がずっと悪夢にうなされているのを聞いていたから、どうにも心配で。でも抜け出せたみたいだから、よかった」
「……うん」
「お前は昔と変わらない。ずっと末っ子で、ずっと甘えん坊の、わがままなお姫様だよ」
「お父さんみたいなこと言うね」
佳純がおどけて言うと、長兄の表情が一瞬固くなった。すぐにいつもの穏やかな顔に戻して、彼は残りのコーヒーを飲み干した。
「せめてお母さんみたいだと言ってくれよ」
そうおどける長兄に、佳純は「そうだね。ごめん」と自分もおどけて返した。
喫茶店を出て、アーケード街を二人でしばらく見て回ると、夕方近くになった。デパートで佳純が、今人気のマスコットキャラクターのスケジュール帳を見つけ、物欲しそうにすると、長兄がすぐに気づいて買ってくれた。
「お兄ちゃんは何でも買ってくれるなあ」
と感心すると、
「高校の時から俺は母親の役目だったからな」
と、兄のまんざらでもないような声が返ってきた。
デパートから出ると、外はだいぶ暗かった。
今日もいい天気だ。空は青く澄み渡り、夜に差し掛かる海の底のような群青色が、星を一つ二つ輝かせていた。
「お前、よく空を見るよな。そんなに綺麗?」
「うん。とても」
顔を上げて、建物の間から見える夕空を目に焼きつけると、佳純は兄と歩き出した。
帰り道を長兄に送ってもらいながら、佳純は訊くべきかどうか迷っていた。
母がどうして死んだのか、自分は誰に憎まれていたのか、思い出すべきことはすべて思い出していた。
「お兄ちゃん、家の前まで送ってくれる?」
「ああ、いいよ」
長兄は快く承諾して、一緒にバスに乗って、佳純の住む住宅街までついてきてくれた。
バスに揺られている間、二人は当たり障りのない世間話をして、その場をしのいだ。長兄も感づいている。佳純が過去の記憶を取り戻したことに。
バスを降りて、聡子たちの待つ一戸建ての家の前に、二人は向かい合った。
何か言おうと、頭の中で言葉を探している兄とは対照的に、佳純は、スラスラと、まるで芝居のように、台詞が口から舌に乗って出てきた。
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