〈14〉
「実はあの本、途中の内容を飛ばして、最後の結末読んじゃった」
彼女は「へへへ」と笑った。佳純がポカンとしていると、夕莉は悪戯っぽく肩を小突いた。
「好きなら後悔しないように勇気出しなよー」
「あ、あの、話の内容はどうだったの?」
佳純がたじろぎながら訊くと、夕莉は「ああ」と朗らかな笑みで話した。
「ストーリーはね、冒頭部分で主人公と大の仲良しだった一つ上のお兄さんが死んじゃって、その人の葬式のシーンから始まるの。
それで主人公は悲しみの淵をさまよいながら、最終的にお兄さんの亡霊を見て、彼の魂の言葉を聞いて、この世界で生き抜くことを決心するの。
それ以来、もう二度とお兄さんの言葉を聞けなくなっちゃうんだ。そこで終わり」
「……何か、悲しい話だね」
「うん、でもね」
夕莉が何かから解放されたように、爽やかな笑顔を見せた。
「私、救われた。上手く言えないけど、お兄ちゃんが私に何を伝えたいのか、何となくわかったから」
それにね、と夕莉は続けた。
「メモが挟まれてあったの」
「……メモ?」
「うん。本から落ちないようにセロテープで貼っていてさ。最後のページの、作家と編集者の名前や、発行人とか、印刷所の名前が記載されているページ。そこにノートの切れ端みたいなやつがあって、お兄ちゃんの字が綴られていた」
夕莉は前を向き直して、懐かしむように言った。
「生きて、元気に暮らせ。もう逢うことはないだろう」
佳純は、胸がキュッと締めつけられるような、途方もない気持ちになった。
「これ、作中の登場人物の台詞なんだよ。あの人ってロマンチストだったんだね」と夕莉は少しおかしそうに吹き出した。
佳純は夕莉の笑い顔を、ずっと見ていたいという思いを抱いた。
彼女は、間違いなく自分の親友だった。
「佳純、私は、もう大丈夫」
夕莉はなおも前を見つめて、力のこもった声を出した。
「大丈夫。絶対に大丈夫。言い切れるから、一般クラスに移って。がんばって。また遊びに来てね」
「……うん」
泣かないようにするのが精一杯だった。
夕莉の美しい横顔を、ずっと見ていたかった。
進もうと決めたのは、ほかでもない自分自身だ。親友の夕莉に誓って、絶対に後悔はしない。彼女と別れることを。翠のことを好きになった自分を。
この先、この二人と、どんな関係になるだろうか。兄たちと同じように疎遠になるだろうか。また一緒になれるだろうか。わからない。でも私たちの深すぎる苦しみは、今ようやく、終わろうとしている。そしてまた新たな苦しみも生まれるだろう。そんな時は、大切な人たちの笑顔や言葉を、思い出せばいい。
バス停への分かれ道に差しかかり、佳純は、夕莉の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。「さようなら」「また明日」と、二言だけを告げて。
バスの中はがらんとしていた。こんなに空いているのは初めてだ。乗っているのは二組の年寄り夫婦と、一人の若い男性だけだった。
一番前の座席に座った。ぐっと体重を乗せて、ポコッと突き出た最前席に腰を下ろすと、真昼の日差しが、窓からまぶしく道を照らしていた。
これからは、帰る時間帯は夕刻の始めだろう。空は少しずつ暗くなるのが早くなっている。秋は深まり、冬が近づいている。三学期は真冬の一番寒い時期だ。今年は雪が降るだろうか。
夕莉のことが好きだった。
翠のことも好きだった。
二人を心から愛していた。
目の前の景色が歪み始めた。
にじみ出た涙は佳純の頬を濡らし、バスの車内の薄暗い沈黙は、エンジン音が響くだけで、誰一人として騒がなかった。
周り中が他人であることで、救われるものもあるのだ。佳純はそれに、気づいた。
あの息苦しかった実家。皆が監視者のように佳純の家を見張っていた。
ここでは誰もが他人だった。聡子と稔でさえも。
やっと、一人で泣くことができた。
家に帰ろう。新しい家に。未来を、生きなければいけない。
佳純は声も立てずに泣いた。幼い頃から誰にも知られないように泣くのは得意だった。部屋の片隅で、じっとうずくまっていた。ぽろぽろと落ちる涙は手の甲に落ちて、服の袖に落ちて、温かかった。
バスは、住宅街へと入った。停車ボタンを押し、降りた。空を見上げると、厚めの雲の中から、太陽が丸い輪郭を伴って、光を注いでいた。
もう、大丈夫。
誰かの声を聞いた気がした。
それは夕莉だったり、翠だったり、聡子や稔だったりした。その声は形を変えて、佳純のそばに佇んでいた。
この言葉とともに、歩いて行ける。
涙は乾いていた。佳純は深呼吸をして、しっかりとした足取りで、家へと歩いていった。
さようなら。また明日。もう、大丈夫。
→第三章「青花翠」へ。
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