逃避行

 突然、聞きなれた笛の音が無人のはずの夜の公園に響いた。私が監査時に首から下げている、管理官のインキュバスを呼ぶためのあの笛の音だ。音の方向に目を凝らすと、月明かりの下に自分の知っている女がいた。先日便所で交わった、あの園長だった。

 まずいことになったと私は思った。インキュバスがほどなく飛来してくるはずだ。おそらくは、我々は身柄を拘束されることになる。そして、その先は、どうせろくなことにはなりはしないだろうことは容易に想像ができた。


「ここは私が食い止めるから、早く行って」と郁子先生が私を促す。

 私は手早く服を身に着けると、否応もなく自転車にまたがった。

 遠くの空から羽音が近づいてくる。

「こっちです。早く」

 上空を見上げて叫ぶ園長の声が聞こえた。

 査察官はバサバサと大きな羽音をたてて着地すると、自転車で走りだそうとする私には目もくれず、全裸のままの郁子先生に襲いかかった。


「行って!早く!」

 インキュバスは郁子先生を組み伏せ、マントの下から巨大なペニスを露出させて突き立てようとしている。彼女も、真っ赤な口を開け、牙をむきだして抵抗しているが、力の差は歴然だ。 

 悲惨な状況の彼女に心の中で謝りながら、私は無我夢中で自転車を漕いだ。


 5分ほど必死で走ったのち、私はスマホで自分の位置と目的地までの経路を検索し、それを頭に入れた。位置情報を知られる恐れがあるので、スマホは途中の林に捨てた。

 もはや私は、これが夢なのか、現実なのか、どこまでが夢で、何が現実なのか、さっぱりわからなくなっていた。

 

 片側一車線の県道を外れ、道は九十九折りの林道となった。急な上り坂を必死になって自転車を漕ぎ、東の空が明るくなり始めたころ、私はどうにか指定された峠に到着した。

 

 峠には古びた茶屋があり、それに隣接して、丸太の椅子を伴った木製のテーブルが十席ほど設えられた屋外の広場があった。そしてそのテーブルの上では、早朝にもかかわらず、工藤課長が例のステップでダンスを踊っていた。

 小さいおじさんではない、私の記憶よりは幾分歳は取っているものの、見間違うはずもない、身長150センチの、正真正銘の工藤課長だ。


「おう、ようやく来たな、同志。例のものは持っているか」

 私は、あっけにとられながら、郁子から受け取った、円筒状のものをポケットから取り出した。

 工藤課長がそれを地面の上で転がすと、土の上に見たこともない文字のようなものが浮かび上がった。

「これこれ。これで勇者たちにサタンを倒す呪文を教えることができる」

「ここだけの話だがな、この奥に、サタン討伐のための勇者たちを養成する秘密基地があるんだ」


 私は紛れもなくお尋ね者になってしまったのであろう自分の軽率な行動を呪った。

 自分の中のわずかに残っていた良心を押し殺し、ようやく手に入れた平穏な暮らしなのに。この男に夢の中で騙され、利用され、今それを失おうとしている。

 この小男に対する怒りがふつふつと湧き上がってきた。

 

 同時に、自分はまだ夢の中にいるのかもしれないとも思った。仮にこれが夢であるとしたら、一体どこからが夢だったのだろうか。寝られないと思ったが、実はその時に眠りについていたのか。園長先生と交わったあたりからか、その前のクーデターからかもしれない。

 いや、そもそも課長や私という存在を含め、全てが誰かの夢の中の出来事なのかもしれない。

 

 気が付くと私の手には槍があった。長さが1mほどの、でも普通の槍と違って先端が三又に分かれた、槍というよりも巨大なフォークのような形状をしている。

 これを課長の体に突き立てたらどうなるのか。課長が現実の人であれば赤い血が噴き出すはずだ。もし夢であれば、褐色の、不快極まりない匂いのするあの液体が噴き出すことになるのだろう。

 

 能天気にステップを踏む課長に向かって、私はフォークを手に大きく振りかぶった。

(完)




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小さいおじさんのはなし 廣丸 豪 @rascalgo5

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