白いカラス

@9630

白いカラス

 僕はその研究室の重厚な扉をゆっくりと押し開く。扉は自らの存在を誇示するかのような重みで僕の手を押し返そうとする。つくりつけられた時にはいくぶん軽かったのかもしれない。その重みは積み重ねられた歴史を含んでいた。


 教授は自らの歴史の象徴であるかのように、たくさんの本が並べられた書架を背に、簡素なスツールに腰を下ろしていた。手にした文庫本に目を落とし、ひどく集中しているように見える。たった今僕が開いた古く、重い扉の、歴史的な響きを含んだぎぃっと言う音でさえ、手にした物語の効果音であるかのようにまったく気に留めていない。それでも僕は、教授が少しずつ手繰っている物語に、これ以上余計な物音をたてないよう注意を払いながら、後ろ手でそっと扉を閉める。

 扉のすぐ脇で、教授が座っているものと同じスツールが僕を出迎えてくれる。そしてそのスツールにやはり出来るだけそっと腰を下ろし、ここまで殺し気味だった息を整える。素早く吸い、そして吐く。それから僕は視線を教授に定める。その視線にはどのような意味も込めず、ただ、見つめる。邪魔をしないように。


 今は亡き大切な人が記していた日記のページを手繰っている寡夫のようでもあるし、世を揺るがした重大な事件の調書に目を通している検察官のようにも見える。あるいは自身の青春時代の群像を探し出そうと、古いアルバムを眺めているのかもしれない。様々に見える教授のその「深み」のようなものは、決して短くはない年月を消費して備えられたに違いなかった。

 しばらくは教授がページをめくる無機質で乾いた音だけが、部屋の中を静かに満たしていた。一定のリズムをとり、規則正しく刻まれるその音こそが、まるで遥か昔から連綿と続いてきた時の刻み目であるかのように。

 僕は目を閉じ、全身の力を抜き、できるだけ何も考えずに、部屋を満たすその刻み目に自分を重ね合わせていく。心地良い句読点のようなその刻み目に含まれていく。


 開け放しにされた南向きの窓からは、外にあるイチョウの木の影を連れた午後の柔らかい日差しが音も無く忍び込んでいる。その日差しは、彼の手にした物語の邪魔をしないようにやはり出来るだけ静謐を心がけているように見えた。もうすぐ十一月になろうとしているこの時期の陽光は穏やかで、地表にあるもの全てを慈愛で包み込もうとしているようだった。けれど本来は申し分なく大きいはずの研究室の窓は、あとから無理やり設置された書架にさえぎられ、半分ほどしかその役割を果たせていない。残されたもう半分の窓からの光には、慈愛こそ失われていないものの、部屋全体を充分に浮かび上がらせるだけの力は無い。だから研究室はいつも薄暗かった。


 窓の外で鳥が鋭く二、三回鳴いた。妙にくっきりと誇張され、あまり耳心地が良いとは言えない類いの鳴き声だった。でも僕に鳥類に関しての知識は無い。だからどんな鳥か見当もつかなかった。イチョウの木の上で鳴いたものだから鳥だと思っただけで、実はちっとも鳥じゃないのかもしれないし、ついこの間まで汗ばむような陽気が続いていたから、それは深まる秋のどこかに隠れていた夏の残響かもしれない。

 鳴き声はページをめくる教授の手をしばし止めた。その声は物語に登場するべきものではなかったのだ。でもすぐにまた、彼は時の刻み目を手繰り始める。


 それっきり鳥―あるいは鳥と思われる何か―は鳴かなかった。研究室は再び静謐と、書物達の歴史的な重みと、教授がページをめくる音で満ちていく。

 その音は本のページをただめくるだけの音だった。紙切れをこちらからあちらへ移動させているだけに過ぎない。でも教授がページを重ねていくたび、その一枚一枚に含まれる様々な思念が、窓から差し込む深く柔らかい慈愛の中に鮮やかに舞い踊っているように感じられた。それは筆者の伝えたかった痛切な思いであったり、登場人物達の悲痛な叫びであったり、今まさに物語に没入している教授自身の情念のようなものであったりした。そこには悲哀が顔を覗かせていた。鮮やかではあるけれど物悲しい印象を僕は抱いた。



「教授。岩月教授」

 ふいに彼が、見え隠れする悲哀に手を引かれて永遠に物語の中に吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われ、僕は思わず声をかけた。誤った道筋をたどろうとする幼子に手を差し伸べるみたいに。

 教授はやはり物語に深く入り込んでいたようで、僕の声がその耳に届けられるのにいくばくかの時間を必要とした。ページを手繰る指が止まり、文字を追う視線が静止し、自らを呼ぶ声がいったいどこから聞こえてくるのかを思案するみたいに、しばらく彼の周りの時間の概念が消える。僕の声を届けるために必要な時間は、そこでは概念の消失というかたちをとるようだ。

「やあ、君か」

 岩月教授はやっと顔をあげ、どことなく焦点を失ったような目で僕を見ながらそう言った。それから本をかたわらの机に置き、両方の手で両方の目をゴシゴシと擦る。そうすれば失われた焦点は取り戻せるんだと言わんばかりに。

「君も人が悪いな。入る時はノックをしてくれと言っておいたじゃないか」

 そう言いながら教授は、机の上から本の代わりにメガネを手に取ってかけた。それでようやく教授の視線は僕に定まる。さっきまで時を刻んでいた文庫本は、机の上に積まれたままのたくさんの他の本たちと肩を並べると、急に匿名性を主張し始めて目立たなくなった。

「しましたよ、いつも通りに。いつも通り返事はありませんでしたが」

 僕はそう主張して肩をすくめる仕草をした。

「それはすまなかった。本を読んでいる時はつい夢中になってしまってね」

「相変わらずですね。今日は何を読んでいるんです?」

「漱石だよ」

「ソウセキ?ああ、夏目漱石ですか」

「そう、漱石。ナツメソウセキ」

 教授は妙に奥行きの無い、まるで古代の石版に彫られた文字を朗読するみたいに、たった今読んでいた本の著者の名を告げた。

「コーヒーでも入れよう。君も飲むだろう?」

「いただきます」

「さて、砂糖はあったかな」

 教授は立ち上がり、研究室の奥に設けられた簡素なキッチンスペースに向かう。



 その時だった。開け放しにされたままの窓の脇でカーテンが揺れた。聞こえるか聞こえないかの微かな羽ばたきの音がした。僕は反射的に窓のほうを向く。次の瞬間僕は、あまり経験の無い判断を迫られた。窓枠に一羽の鳥がとまっている。僕はその鳥を知っていた。だけど確かに知っているはずの姿かたちのものが、まったく知らない要素を引っさげて現れたのだ。僕の目がおかしくなったのだろうか。それとも現実の世界に何かしらの歪みが生じたのか。あるいはその両方がいっぺんに起こって、整合性が失われてしまったのだろうか。

 窓枠にとまり、鳥類特有のぎょろりとした目で部屋の中を見回していたのは一羽のカラスだった。少なくともその容姿から僕の脳はカラスだと判断を下したのだ。判断を下してもなお、全く自信が無い。姿かたちはカラスのそれだが、唯一違うのはその色だった。カラスだと断定すべき絶対の特徴であるはずの黒い色ではなく、そのカラスは真っ白だったのだ。午後の日差しを全身に浴び、まばゆいばかりに純白に輝いていた。

「この鳥は―」

 戸惑いと驚きとが入り混じった僕の声に反応し、自らの正体を語ろうとするかのように白いカラスはくるりと僕のほうを向く。だけどカラスの代わりに口を開いたのは教授だった。

「彼は見ての通りカラスだよ。ただ見ての通り、色が世間一般のカラスとは少し違うだけだ。いわゆるアルビノ種と言うやつだ」

「アルビノ?・・・ああ、色素欠乏のことですか。初めて見ました。色が違うだけでまるっきり別の生き物に見えますね」

 説明をされてもなお、僕はうまく整合性をとれなかった。知り合いだと思って声をかけたら、まったく知らない人だった時のようでなんだか居心地が悪い。

 白いカラスは何か言いたいことでもあるかのように、しばらく我々をじっと見つめていた。我々もカラスを見つめていた。だけどカラスがこちらに何を訴え、こちらが何を訴えれば良いかまったく見当がつかない。そこに相互理解が深まる気配は少なくとも僕には感じられなかった。


「相互理解、を、深める必要、などあるまい」

 白いカラスが言った。しゃべった?鳥が?

「べつ、に、鳥がしゃべっても、よかろう。そもそも人間も鳥もひとり、ずつ、違うんだ。しゃべることが出来るのに、鳥だから、と、いうだけでしゃべらない、理由には、なるまい」

 目の前で何が起きているのか理解が出来なかった。もう少し正確に言えば、目の前で起きている事象に脳の理解が追いつかない。

「理解する必要、などない。受け入れれば、良いだけ、で、あろう」

 白いカラスはそう言うと、ぎょろりとした目をぱちくりさせた。


 僕は思わず教授の方に顔を向けた。誰がどう見たって助けを求める顔だったに違いない。見たこともない真っ白なカラスがしゃべっているうえに、一言もしゃべっていないこちらの考えにいちいち返答してくる。

「驚かせてしまったね。田中さんは人間の言葉を話せるんだよ」

 タナカサン?教授はカラスのことを「タナカサン」と呼んだ。

「田中さんはね、時々ここにやってくるんだよ」

 さっぱり訳が分からなかった。だから僕は口を半開きにしたままタナカサンをながめるしかなかった。自分のことが話題になっていることなど、これっぽっちも興味が無いんだというふうに、タナカサンはその純白の羽を毛づくろいしていた。


「田中さん、今日はどうしたんです?」教授が聞く。

「いや、なに、通りすがっただけなんじゃが、そこ、の、彼に迷いが見えたもんで、な。ついふらっと、な。まあ、年寄りのおせっかい、と、言うやつだよ」

 タナカサンはそう言って僕のほうを向く。

 確かに僕はちょっとしたことで悩んでいて、今日ここに来たのも岩月教授に話を聞いてもらおうと思ったからだった。だけどまさかカラスにそのことを見透かされるとは思わなかった。いったいどこの世界に悩み相談を聞くカラスがいるっていうんだ。

「まあいいじゃない、か。年寄り、の、アドバイスは黙って聞く、もんじゃ」

 タナカサンはまた勝手に人の心を見透かしたうえにかまわず続ける。まだ人間の言葉に慣れていないのか、あまり心地良くない句読点をはさみながら。

「この世界は、見えているものだけで、全て、だ。君に、とっても私にとっても、たった今目の前、に、見えているもの、だけ、で出来ておる。世界なぞ、所詮そんな、ものだ」

 そこまで言ってタナカサンは咳ばらいをひとつする。咳ばらい?カラスが?

「ただし。今目の前に見えているものひとつ、ひとつに、何が含まれているか、によって、世界のありようは、がらり、と、変わってしまう。君にとっても私に、とっても、だ。」

 タナカサンは片方の羽を広げてまた毛づくろいをした。これからしゃべるべき事がそこに書かれていて、こっそり覗き込んでいるようにも見えた。

「迷う、ことは、悪いこと、ではない。大事なのはそこに何が含まれ、て、おるのか。あるいは何も含まれ、て、いないのか、を見極める力だな」

 そこまで言うとタナカサンはくるりと窓の外を向く。

「それだけじゃ」

 そしてタナカサンはやって来た時と同じように、微かな羽音とともに飛び去った。



 柔らかな日差しが差し込む研究室は、再び僕の知っている要素だけの世界に戻った。戻ったはずなのに世界のありようは少しだけ変わってしまったようで、やはり居心地が悪い。すでにそこには、僕の預かり知らない何かが含まれているみたいだった。

 奥のキッチンスペースでは、教授が何事も無かったかのようにコーヒーの支度をしている。

「すまない。コーヒーを入れようと思ったんだが、砂糖をきらしていてね。ブラックでも構わないかい?」

 こちらに向かって申し訳なさそうに教授が言った。

「はい、構いません」

 どちらかと言えば僕は、ちょうどブラックコーヒーが飲みたかったのだ。白い要素が含まれていない、キリッとしたブラックコーヒーが。

「田中さんもあんなに真っ白なんだから、砂糖のひとつも持っていてくれたらいいのに」

 岩月教授は冗談とも本気ともとれない口調でそう言うと、ガス台の上にやかんを置き、つまみをひねった。カチリと音がした。

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