第3話
さて返答に困った。下手に口をきけば暴力による支配を受け、無視を決め込めばやはり殴打を浴びるに決まっている。僕は己が不運と軽率な行動を呪いながらも、窮地を脱する方便を組み立てようと頭の中で足掻いていたのだが、それが徒労である事にすぐ気がついた。目の前の男が襟元に付けている学年章。それは、僕と同じく、控えめに一と、安い銀色で輝いていたのである。
この発見は僕を大いに増長させる効果があった。緊張から解放され、同じ一年同士気安く話せばいいじゃないかと、普段にない軽薄さが生まれ出たのだ。
「一年だよ。ところで君、何をしているんだい? 屋上に入っていいのは上級生だけという話だよ? 露見したらまずいんじゃないかい?」
随分と饒舌にそんな事を言ったと思う。いや、もしかしたらもっと馴れ馴れしく、またお節介な言葉を並べ立てていたかもしれない。
しかし男はそんな忠告に対し、馬耳東風であるというような面持ちで口を開いた。
「へぇ。でも気持ちがいいよ。屋上」
この時点で噛み合わない相手だなと思ったが、会話を交わしてしまった以上相手を納得させたいという欲に囚われたものだから、上級生が如何に恐ろしいか説明したかった。しかしどう話しても情けなさが露呈するような言い回ししか思い付かず、自身の価値を下げかねないなと感じた僕は、冗談を述べるようにすれば己が惰弱さを隠せるのではないかと愚考し、努めて薄情な風を装って、わざとらしく薄ら笑って言ったのだった。
「こ、怖いんだぜ? 殴られたりするんだから」
虚勢を張った結果舌が回らずしくじり、格好を害してしまった事に顔が赤く染まっていく感覚が走った。しかし、真に恥ずかしい思いをしたのはその次である。
「ふぅん。でも、そんな事、どうでもいいさ」
そんな事。
どうでもいい。
男は上級生の暴力をまったく意に返さないというのである。心の尺度で、負けた気がした。すると、途端に逆恨みめいた怒りが湧き上がり、不愉快に苛む。非常識者と相対した時のような恐怖が、攻撃性を帯びて発露したのだ。だがそれと同時に胸の中で弾けるような爽快感が確かにあった。僕は恐れを知らないこの男を羨望してしまった。初めて会ったばかりだというのに、一瞬焦がれてしまったのだ。
「そうかい。それじゃあ」
それを悟られるのは嫌だった。
僕は一方的に別れを告げて背を向けると、こいつとは二度と喋らないという覚悟を持って元来た道を進まんと足を出す。が。
「待ちなよ。せっかく友達になったんだ。一緒に話そう」
右手が掴まれ止まる。それも凄い力で、僕の手首が締め付けられるのだ。
「痛い!」
「あぁすまないね。つい力が入ってしまった」
はははと笑う男と赤くなった腕の皮膚を見比べ、もうどうしていいのか分からなくなってしまった僕は、ともかく隙をついて全速力でその場を後にするしかなかった。逃げ切れないと知らずに。
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