幕間

ささやかな願い

 声の主が誰かなんて、振り返る前からわかっていた。ユールリッドくん、とそんなふうにユールのことを呼ぶのはレンフォルツ・ウィンザールくらいのものだから。


 何気なく振り返ったユールは、だが次の瞬間目をすがめた。レンフォルツの声のトーンはいつも通り。なのにその顔つきはいつもと違う神妙なもの。「ええ、おまえそんな顔できるの?」と思わず口にしそうになったがすんでのところで思いとどまり、代わりに怪訝な視線を送った。


「……なに?」

「僕、ずっと、ユールリッドくんに言おうと思ってたことがあるんだ。……聞いてくれる?」

「うん、なに?」


 思い詰めた様子のレンフォルツは息を吸いこみ口を開いた。と思うとすぐに閉じる。唇を引き結んだままユールをじっと見つめていたが、やがてふいと視線を逸らした。

 ――なんなんだよ一体!?

 ますます意味がわからない。ユールの眉間に深いしわが刻まれたが、明後日あさっての方向を向いているレンフォルツはきっと微塵も気づいていないだろう。

 よほど言いにくいことなのか。下唇を軽く噛んだ横顔はどことなく紅潮して見える。



 ……ちょっと待て。待て待て待て。



 ユールは片手で顔の下半分を覆った。この空気感は。ただし相手が女の子のとき限定で。

 まさかそんな。だがそうとしか考えられない。


 レンフォルツにはがあったのか。


 誰が誰を想おうと当人の自由だし、そこに難癖つけたり物申す権利はもちろんないと思っている。思っているが、その対象が自分であるなら話は別だ。ユールがを抱くのは女の子のみだし、というか今はマルガちゃん一筋だし。ユールにとってレンフォルツは義兄になる可能性こそあれ、恋愛関係になるとかそういう次元の相手にはなり得ないのだ。

 レンフォルツが物憂げに溜息をついた。ユールはぎくりと息を呑む。そっと後ずさるユールの前でレンフォルツは所在なげに両手指を組み合わせた。


「……今までこういうことってあらたまってお願いしたことなくて、ちょっと言いにくいんだけど。でもユールリッドくんとはもっと仲良くなりたいから……思い切って言うね」

「お、おぅ……」

「あのね、できれば僕のこと、」

「っわー! やっぱ待て! 困る! ウィンザール、おまえちょっと考えなお」

「僕を、名前で呼んでもらえないかな!?」

「せ! ……って、はぁ?」


 弾かれたように顔を上げたレンフォルツと数秒見つめ合う。ふたりの間に沈黙が降り、先に口を開いたのはユールだった。


「なまえ?」

「ユールリッドくん、僕のことをファミリーネームで呼ぶでしょ。でもよかったら名前の方で呼んでもらいたいなって……その方が仲良しな感じがして嬉しいなーって」

「あ、ああ、名前……。名前かぁぁぁぁ」

「ユールリッドくん?」


 身体中の空気を吐き出す勢いで盛大に溜息をつきながら上半身を折る。頭の上から「どうかした?」「僕、変なこと言った?」とおろおろした声が降ってきてユールはますます脱力するのを感じた。変なのはオレの方だったと乾いた笑いがこぼれ落ちる。


「本当にどうかしてる……」

「え?」

「なんでもない。名前な、わかった」


 上体を起こした。きょとんとした顔のレンフォルツを見、あらためて〝恋愛と無縁なやつ〟と心に刻む。そうだった、こいつは〝浮ついていたら十人中十人が気づくやつ〟なんだった。

 「これからは名前で呼ぶ」と続ければ彼は嬉しそうに目を輝かせた。


「ありがとうユールリッドくん!」

「あ、オレもユールでいいよ。その呼び方はやめてくれ」

「え? じゃあ、ユールくん?」

「〝くん〟もいらないんだけどな。うーん、まあいいか」

「これからもよろしく、ユールくん」


 にこにこと楽しげな空気を振りまいてレンフォルツは片手を差し出してきた。

 ユールも僅かに口角を上げ、その手を握り返した。

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