濃霧(9)

 私達のもとへ料理が届く。


店員が机に料理を並べていく。


じゅーじゅーと脂が細かく跳ねる。


自然と頬が緩む。


唾液が滲み出し、口の中が潤う。


ふと、店員の顔を見た。


店員は綿素材のマスクを付けていた。


顔が小さいのか、顎下から下まぶたまですっぽりと隠れている。


化粧で目元の輪郭がくっきりしている。


「ごゆっくりどうぞ」


店員は言う。


その口の動きに合わせて、マスクが僅かに顎側へずれる。


店員の頬が見えた。


そこには、青黒く滲んだ痣があった。


私の瞳孔に緊張が入り、思わず、痣に集中する。


その痣は、左の下まぶたから頬に広がっている。


しかし、マスクにより、その痣の全貌がわからない。


暴力傷にも見える。


夫から暴力を振るわれているのか?


それとも、病? 怪我?


生まれつきの可能性もある。


疲労?


くまが、できているだけかもしれない。


私の脳内で様々な思考が現れては消える。


店員は私達の席から離れる。


気が付けば、私はその店員の背を憐れむような眼差しで見ていた。


 食事をいただき始める。


次第に老婆の異様な出来事は記憶から薄れていった。


美味しいご馳走を私達は顔を見合わせて分かち合う。


私はぺろりと平らげ、妻と娘の食事を眺める。


妻の咀嚼する時の頬が膨よかに動く。


その隣で娘も咀嚼する。


娘の咀嚼する頬の動きが、妻に似ていることに気が付いた。


私はくすりと笑った。


妻は、きょとんとした疑問の表情を浮かべて、私を見る。


「いや、二人とも似ているなと思ってな」


私は答える。


「まあね、私達親子なので」


妻はもぐもぐと咀嚼しながら言う。


ふと、娘の食事を見ると、食器に人参が残っている。


「人参が残っているな」


私が言う。


娘が咀嚼しながら、上目遣いで私の顔色を窺う。


「食べないと元気な大人になれないぞ」


私は柔らかな口調で諭す。


「一つは食べなさい」


妻が言う。


「うーん」


娘は人参をフォークで刺して、口元へ近づける。


人参が近づくにつれて、娘の眉間にしわが寄っていく。


ぎこちなく、口が開く。


口の中に小さな舌が見える。


舌の全体が薄桃色で舌先は丸い。


きめの細かい舌の表面は舌苔もなく、潤沢な唾液に帯びている。


その小さな舌は口の中で左右に振り、暴れている。


口の中に人参を入れた。


娘は目をぎゅっと閉じて、顔の中央に向けてしわを寄せる。


渋い表情を浮かべながら、咀嚼する。


ごくん。


娘の喉から飲み込む音が聞こえる。


娘が、うわーっと口を開けて、苦い表情で訴える。


娘はすかさず、フォークを持ち、残りの人参を取る。


私と妻は娘の意欲に驚く。


しかし、驚きもすぐに笑いへ変わった。


娘は、その人参を妻のお皿へ、そろりそろりと持っていく。


そして、人参を妻のお皿にそっと置いた。


娘は妻の顔色をちらりと窺う。


人参を置いたフォークを素早く元に戻す。


再び人参を持つと、ゆっくりと妻のお皿に連れていく。


その人参も妻のお皿にごろんと置くと、素早く元に戻った。


私の眼差しに気が付いた娘はぎょっとする。


「今日はお出掛けだし、いいんじゃない?」


妻が微笑みながら言う。


「そうだな。全く、可愛いことするね」


私も笑みを溢して言う。


私と妻の笑顔を見た娘は明るくなった。


 私達は食事を終えて、席で寛いでいる。


「これ、できるか?」


私は水が半分位入ったコップの縁を人差し指でなぞる。


高音がふわんとなる。


その光景に娘は目を丸くした。


「やりたい、やりたい!」


娘は椅子に座ったまま、臀部で跳ねて言う。


妻は、また始まったと言わんばかりに私を見る。


私は自慢げにグラスの縁を指でなぞり、音を出す。


娘は私に真似をしてグラスの縁を指でなぞる。


しかし、音が鳴らない。


私は、スプーンでコップの中の水を掬う。


「この水を指につけてからすると鳴るよ」


娘はスプーンで掬った水をちょんと指につける。


再び娘はグラスの縁をなぞると、高音が鳴った。


「おお、凄いね」


私はそう言いながら、グラスの縁をなぞり、音を出す。


「お父さんと音が違うの、なんで?」


娘も音を出しながら聞く。


「コップの中の水の量が違うからだよ」


私は答える。


私と娘の高音の響き合いが続く。


その音も、愉快な話し声が広がる店内では目立ってうるさくない。


「もう、うるさい!」


妻が目を細めて言う。


私と娘はぴくんと体を固めて、奏でるのを止めた。

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