四 勘違い

「ちょ、ちょっと待ってください! そ、それじゃあ、となりの501号には今、誰も住んでいないって言うんですか!?」


 でも、ここへ越して来てからというもの、確かにあの女を何度となくこの目で見てるんだ。体が透けているわけでもないですし、あれが幽霊だなんて言われても、俄かには信じられませんよね?


 やっぱり何かの間違いかもしれない……そう、半信半疑に訊き返したA君でしたが、じつはですね、ここにもう一つ、彼には大きな勘違いがあったんです。


「501? ……ああ、いえいえ。左どなりではなく、自殺があったのは右どなりの503号の方ですよ。もう一度確かめてみてください。今は誰も住んでないはずですよ?」


 不動産屋は、彼の質問にそう答えるんです。


 そう……事故物件で誰も住んでいないのは、あの美人さんのいる部屋の方だっていうんですね。


 ええ!? そんなバカな! あの子とは毎日のように挨拶交わしてるし、どう見たって幽霊には見えないぞ!?


 501号の気味悪い女だって幽霊とは思えませんでしたが、あの可愛らしい笑顔をした美人さんが生きている人間じゃないなんて、とてもじゃないが信じられない。


 もう、何がなんだかわけのわからなくなったA君は、どう答えて電話を切ったのかも憶えていませんが、慌てて右どなりの503号室の前に行って確かめてみたそうです。


 ほんとはこんなことしちゃいけないんですけどね、ドアの郵便受けから中を覗ってみると、ほとんど何も見えないんですが、臭いというか、空気の感じっていうんですかね? どうにも人が住んでいるような気配がほんとにしない。


 続けて今度はベランダに出て、覗き込める範囲で503号の方を見てみたんですが、やっぱり人気ひとけってものが感じられないんですね。


 その後、さらにとなりの504号の住人…まあ、A君と同じくらいのサラリーマンなんですが、その人を訪ねて訊いてみたんですけどね、彼もやっぱり「503号? ……いや、ずっと空き部屋だと思うけど?」と訝しげに首を傾げて答えるんです。


 それでも信じられないA君だったんですが、そうこうしていると、あの501号に住んでいる薄気味の悪い女が、ちょうど部屋から出てきてバッタリ出くわしたんですね。


 相変わらず黙ってジロっと睨みつけてくる女でしたが、もうそれどころじゃないですからね。


「あ、あのう……」


 と、思わず彼女にも503号のことを確かめてみようと、気づけば声をかけていたんですね。


 すると、いつもは無口な彼女でしたが、どうやら彼の様子がおかしいことに気づいたらしく、こんなにしっかり話すのはほんとに初めてだったんですが、こう、尋ねる前から答えてくれたんでね。


「やっぱり、何かあったんですね……じつはあたし、普通に幽霊が見える体質なんですけど、あなたがあの女の霊と人間みたいに接していたんで心配してたんですよ」


 彼女の言うにはですね、彼が睨まれていると思い込んでいたのは、逆に心配して見守っていただけだったようなんですね。突然、こんなこと言うと変に思われるかもしれないと、心配しつつも声をかけられずにいたそうです。


「あの女の霊、いつもここの住人達に声をかけてるんですが、みんな見えないから反応しないんです。あたしもつきまとわれたくないから、あえて無視してますし……でも、あなただけはどうやら見えるみたいですね。あんまり関わらない方がいいですよ? 取り憑いて道連れにしようとしますから」


 501号に住んでいる女性は、彼のことをほんとに心配してくれている様子で、そうつけ加えました。


 彼女の話に驚きながらも、その時ですね、A君はあることをはっきり思い出したんです。


 ああ、そうだ……あのストッキングを履いたすらっとした脚、どこかで見たことあると思ったら、あの美人さんの脚だ……と。


 瞬間、先程、不動産屋と話していた時以上にゾクゾクと血の気の引いていくのを覚えたA君は、そのままそこのマンションを出て、しばらくホテル暮らしを続けた後に急いで引っ越したそうです。


 A君、最後にこう言っていたんですがね。


 後から思うに、あの女の脚が「ありがとう……ありがとう……」ってずっと繰り返していたのは、彼女のことが見えない住人達がみんな無視する中、彼だけが親しげに言葉を交わしてあげていたことがうれしかったからなんじゃないかと。


                          (ありがとう 了)

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