-第七話- 開封府脱出に向けて
華歴二百三十三年 初春 開封府
「子竜先生、昨晩は遅くに使いを出してしまい申し訳なかったな。確かに無作法であった。どうか許されよ」
「こちらこそ申し訳ございません。つい、気のおけぬ友人と飲み明かしており、そのままの姿では殿下の御前に出ることもままならぬ状態であったならば……」
華の習慣として、その日の職務を終えた者がどこで何をしていようと雇い主が関知出来ることではない。
身分の上下は有ろうとも、相手は一人の人間である。これは皇帝の命令だとて同じことである……原則的には。
勿論のこと、呼び出した側にしてみれば、用があるから、または気が向いたから呼び出したのであるから、いついかなる時にでも呼び出しに応じる類いの人間は可愛いし、寵愛を与えることになる。
故に、出世が何よりも大事な類いの人間は常に主人の呼び出しに備えるし、また、非常識な時間に呼び出されれば呼び出されるほど、自分の忠誠を示す好機だと喜びもする。
だが、そのような感情は、所詮小人の生業である。
大丈夫たるもの、公私の分別はわけ、孝を大事にし、仁を守り、忠を尽くすを事とする。
……そう考えると、今回の子竜の行いはなんとか無作法一歩手前でとどまったものであるとも言える。
(いや、人間には潰れるほどに飲みたくなる時ってあるだろ?
だって、あれほど妻に迎えようと一心に口説いていた女性が……)
……理由は人それぞれ、千差万別であろう。
「で、そちらの御仁は?」
「これはご挨拶が遅れました。私は倭国より渡ってきました冒険者の太郎と申します。子竜先生とは数年前より意気投合し、勝手ながら無二の友と自認しております」
「ほう、先生の友か。ならば、太郎殿も私の先生となるな。ご存知かも知れぬが、私は姫立人である」
「殿下の御高名、友より聞いております。こうしてご挨拶できます事、誠に持って光栄の極み」
冒険者は無礼を許されている身分である。
異邦人に自国の身分を適用することを固く禁じた太祖の勅より二百年余り守られてきた掟だ。
だが、目端の利く冒険者は、その勅をよりどころにして無礼を働くことなどしない。
叩頭をする者は稀だが、眼前で手を合わせ頭を下げる程度の礼は行うものだ。
(何の因果か皇太子殿下にお目通りすることになろうとはな。
ここは深く礼を施して、早々に退散するが吉だな)
そして、太郎は普通の感覚を持ち合せた冒険者であった。
「そうか、それは重畳。……では子竜先生、少々相談したいことがあるので中へ。……太郎殿、私の侍女がお手数をおかけしたな」
「……」
余計なことは口に出さない。
これも良い冒険者の身の処し方である。
太郎は、再度深く礼を施した。
立人は鷹揚に太郎の礼に頷きをひとつ返し、いつも授業が行われる己の書斎へと子竜を招いた。
ぎぃっ。
皇太子府、立人の書斎の戸は重い作りをしている。
耐火の供え、防御の供え、防諜の供え……いくつもの理由により帝国内でも有数の職人が、これまた帝国で有数の素材を求めて作った代物だ。
(……いやはや、相変わらず立派な戸だよな。
この戸の一揃えで、一体俺の俸給の何年分になることやら……)
どうにも少市民な感覚の子竜である。
だが、それもしようのないことであろう。
香家は楚の南、
「で、早速だが子竜先生。此度の北京府壊滅の件で動きが有ったので相談をしたい」
「はっ、何なりと……」
この問い自体は予想通りだったので、子竜は特に動揺もせず、静かに一礼で答えた。
「此度の戦い、二十万将兵悉くが屠られ、屍を北京府に晒した。……幸いにしてというかなんというか、征伐軍の指揮官自体も戦死をしているので、他の軍人に敗戦の責が及ぶことは通常ないのだが……」
「……四珠皇子の腹心が一珠皇子に寝返った上での出征。四珠皇子が宰相辺りに何やら、責任を負わせようとなされておりますか」
「そういうことだな。……本来であれば、そのあたりのことは好きにしろと言いたいのだが、此度は私が返却した魯国の虎符が使用されての軍編制だったのがな……旗色の悪い宰相派が少しでも責任の矛先を私に向けてきて面倒なのだ」
「……なるほど」
(確かに、どうにも宰相閣下にしては筋の悪い責任転換だな。
そもそもが虎符は皇統に連なる者であっても私するものではない。
しかるべき職責と地位にある者が使うべきもの。
今回の魯国の虎符であれば、皇太子殿下には使用する権利があったが、それを返却した段階でこの虎符は皇帝が非常時にのみ使用できるものとなったはず。
それを宰相とはいえ、使用の権限を持っていない人間が使ったというのは、なんとも筋が悪い。
それこそ、征伐軍が勝利をおさめたのであれば、どうとでも話は出来たのであろうが、敗戦、しかも歴史的な大惨敗をしてしまっては、どうにも言い逃れは難しかろう)
「一つお聞きしますが、宰相派はどのような責任の取り方を殿下にお望みで?」
「ふんっ!奴らには確たる考えなど無いのであろうな。なんでも良いから、自分たちの責任が軽くなるように、他者が「責任」という言葉を使ってくれれば嬉しいのだ」
「そうですか、そういう事なれば、此度は楽なことかと」
「……如何する?」
立人はいつものように書斎に入ると同時に腰かけた愛用の椅子から腰を浮かせながら尋ねた。
「宰相派が何かしらの処罰案を携えての話であるならば、その案に何かしらの根拠を見出している証左となりましょうが、そうでないのならば、それはただの言いがかりに過ぎぬという物です。言いがかりを付けられて困ると、四珠皇子にご相談為されば良いのでは」
「……兄上に縋れと?」
立人がこのような思考になるほどに、現皇帝の皇子たちの仲は険悪なことになっている。
「縋るのではありません。「余計な言いがかりを受けていて困る」とさえ表明すればよいのです。元より、四珠皇子派と一珠皇子派は激しくやり合っております。彼らとしては、相手方が他勢力と手を組まずに起こした失策は喜ぶべきことと感じるでしょう」
「……つまり、先生は、私が宰相派とは手を組んでおらぬと表明すれば、後は兄上たちが勝手にやり合うと言われるのだな?」
「左様です、殿下。戦は盤面が見えぬ時には動きが効きませぬ。ならば盤面を少しでも解かりやすくしてしまえば良いのです。敵と味方の位置、敵の動き……見える者が見えたならば、自然と戦は動きます。まさに、山の中の鉱物の正体がわかれば、どのように掘り出すかの決定が行えるのと同じことです」
「くっくっく。子竜先生の例え話は、地理を含めなければ良く理解できるのに……残念なことだ」
子竜本人としては会心の例えのつもりだったのに、立人から不合格の烙印を押されてしまい、思わず眉尻が下がってしまった。
「そう残念がるな。……それと、二人っきりの時は名前で呼べと何度も言っているであろうが?!」
「はっ……殿下を名前でお呼びするなど、どうにも慣れぬもので……申し訳ございませぬ、立人様」
「一年以上も経って慣れぬとは、子竜先生は不器用なのだな……まぁ、良い。それよりも次の相談事だ」
(ふぅ。
相談事って一つだけじゃないのかよ?
って、そりゃそうか、一つぐらいじゃ夜に呼び出しなんかはしないよな)
ぐびっ。
立人は書斎に備えられている急須から茶を入れ、喉を潤してから話の続きをした。
「先ほどは敗戦の事後処理というか、過去の出来事から派生したものだ。次はこれからのこと……というか、これも北京府の壊滅に端を発しているので、どっちもどっちではあるのだが……」
ぐいっ。
立人は更に茶をもう一口飲み、今度は子竜にも茶を飲むように促してから、話を続ける。
「清が陥落した折からあった話なのだが、陛下が大規模出征軍を興し、清を制圧している者どもを討滅すべしと仰せなのだ」
「……当然そうなりましょうな」
「そう、当然そうなる。だが、問題はその軍の規模と誰が大将として率いるかという問題だ」
北京府を攻撃した清軍は二万弱であった。
その二万を討滅するために興された軍は預、冀、魯の三国から二十万。
だが、その二十万は悉くが北京府に屍をさらす羽目となった。
そうなると、次は二十万以上の軍となる。
二十万を越える軍を徴集するためには、大都を含む大国と複数の国、更に今回は中央軍も集められるであろう。
そうなると、軍の総大将は皇族の誰かか、武名の通った王族となるのが通例だ。
しかしながら、今の華帝国には武の誉れ高い王族などは一人もいない。
そうなると、必然、皇族の誰かとなるが、現在、継承に纏わる出来事で同世代の皇族悉くが不審死を招いたのが原因で、皇帝の代の皇族は皇帝その人以外には誰もいない。
そうなると普通は、すわ皇帝親征か!となるのだが、今の皇帝が軍をまともに率いることができるとは、皇帝本人を含めて誰も思っていない。
今度の征伐軍の総大将は皇子の誰かが務めることになる。
こういった事態に落ち着くのだ。
「本来の地位で言えば、皇太子たる私が率いるのが筋なのであろうが……如何せん私は十三の子供に過ぎん。神輿に担ぐにしても頼りないことこの上ないからな、兄上たちは自分たちこそが総大将に相応しいと派閥の者達に声を上げさせている」
「……殿下は出来ることなら総大将になりたいとお考えですか?」
「それは当然だ!此度は少なく見ても四十万の大軍が興されるであろう。そのような軍をを率いての武功となれば、私の皇位継承は揺るがぬ。……だが、一方で兄上たちの誰かが、その武功を手にしたならば、皇太子の私と同じかそれ以上に次代の皇帝へ近づくことは間違いがない……」
万事冷静な立人ではあるが、この時ばかりは声が上ずっていた。
血筋により皇太子の地位に就いてはいるが、これまで確たる功績を遺したとはいえぬ十三歳の少年。焦る気持ちは人一倍であろう。
「残念ながら、立人様……軍の目的が清軍の討滅であるのならば、それは五十万、百万を持ってしても不可能でございましょう」
「……な、なんだと?」
思いがけない子竜の発言に驚く立人。
「燕から北、遼に清は広大です。そのような土地柄、一度清軍が逃げに徹したら、これを追う術は我らには御座いません。戦わぬ相手を追いかけるだけで、我が軍は消耗しましょう。さすれば、いずれ物資が尽きて華に戻らなくてはいけません」
「む?どうしてだ?遼にも清にも都市は有ろう?大地は有ろう?食料は有ろう?」
「確かにそのどれもがあるでしょう……ですが、それだけの遠征軍を支えるだけの物は御座いますまい。遠征軍を支える物資は燕より南から送り届けねばなりませぬ。ですが、前回の敗戦により華の中心地たる預国は別として、燕、冀、魯の三国は満足に税は集まりますまい。そして、それだけの大軍を編成、徴兵された国々も翌年以降はその三国と同じ状態となりましょう……」
「そ、それでは軍を興してしまえば、いずれは国が滅んでしまうではないか?」
「はい……恐れながら……それが、歴史の必定という物です」
がたっ。
立人は子竜の言葉に衝撃を受け思わず席を立った。
「立人様……故に軍を興すことが回避できぬ事なれば、我らは次善の策を練るしか御座いません」
子竜も立人の教師役として仕えて二年近く、昔なら床に額をつけて失言を謝ったものだが、今では涼しい顔で言葉を続けている……表面上は。
(び、びっくりしたぁ……。
なにやってんだかなぁ、俺。
つい、話に興が乗ってきちゃうと失言しちゃうんだよなぁ。
殿下はこの程度の発言で俺を咎められるようなお方ではないとは知っているが……急に椅子から立たれると、心の臓が、こう、びくぅっ!ってなるよな、びくぅっ!って)
「済まない……興奮してしまったようだ。……子竜先生の次善の策という物を聞かせてくれ」
立人はゆっくりと目を瞑って息を大きく吸い、椅子へと座り直しながら子竜に尋ねた。
「はっ。私が考えますに、清軍を討滅……とまで行かずとも、これを討ち破るに大軍は要りませぬ。否、逆効果と考えます。理想は五万程度の精鋭にて戦うことです。さすれば華の国内の税収が落ちることはなく、また最悪の場合、五万の軍は遼と清で十分に養うことが出来ましょう」
「……先に一つ。子竜先生は先ほどから遼と清の国力をだいぶ下に見積もっているが、彼の地には十万の軍と一千万を越える民が住んでおったのだぞ?」
「……清人が蜂起する前まではです。……私も今の彼の地は存じ上げませぬが、耶蘇将軍が齎した報を聞くに、遼と清の多くの街は北京府と同じことになっているのではないでしょうか?」
「……」
子竜は耶蘇将軍から詳しく北辺の状況を聞いたわけではないが、立人は何度もその惨状を聞いていた。
冷静に考えてみれば、子竜が想像するような状況になっているであろうことは疑いようがない。
しかしその内容は、報告しか受けておらぬ者には理解し辛く、戦場をつぶさに見てきた者でなければ信じようがない話でもあった。
「立人様。出来ましたら、此度はそのような遠征軍の編成には近づきなさいますな。出来れば輜重の類いにもです。そのあたりはありもしない武功を夢見る愚か共に任せ、ここは着実に清軍と戦える軍を手元に置くことをお考え下さいませ。幸いにも、既に立人様の下には精鋭を率いるだけの能力を持つ将がおられます。平常時であれば、幾ら皇太子といえど新規に軍兵を養うことに許可は下りぬでしょうが、今の華の様子ではそれも叶いましょう」
華の軍制は開封に集まった流民を太祖が編成したところに始まる。
そして、その軍を以て太祖は開封周辺を征し、次いでその周辺に息子たちを送り、それぞれの地で流民を軍に編制させてきたという歴史がある。
後に、この周辺地域で軍を編成した皇子たちが、その土地の王として封じられたのだ。
この初期の王の中で、済南の街を中心に魯国を建てたのが太祖の長男の皇太子、後の高宗であった。
故に、魯国が華帝国の中で最も格の高い王位となる。
これが、若年ながら、建国当時の魯王の血筋の直系とは言えずとも、魯国の流れを汲む母を持つ立人が皇太子となっている理由である。
「なるほどな……やはり、師に相談して正解であったか。では、私はこれより魯国に赴任できるように動くとしよう」
「いえ!恐れながら、それはよろしくありません!」
「む?魯国でないのか?」
子竜は幾分焦りを持って言を続けた。
「魯はなりませぬ。まず第一に、此度の敗軍二十万は魯でその多くが集められました。つまり、精鋭の基となる頑強なる若者がおりません。第二に、魯国は渤海を渡れば遼となります。間違いなく生き延びた若者たちは、此度の遠征で輜重隊に駆り出されるでしょう」
「ふむ……もっともだ。ならば?」
「南の呉か西の涼となりましょう。これらの土地は前線となる遼、清とは遠く、立人様が精兵を鍛えるに十分な時間を取れること疑い有りませぬ。まずは精鋭無比なる皇太子軍を編制されることを目指すべきと考えます!」
「……なるほど。うむ。わかった!師の策を私の行動指針としよう!」
「はっ……」
子竜は恭しく頭を下げた。
(あぶなかったっ……。
これで、無事に争いからは逃げられそうだな。
水蓮娘々には悪いが、翠蓮娘々のいない開封になどに居られるものか!
一刻も早く開封からは遠ざかりたい!
だが、魯では駄目だ。魯の女性は見た目は美しいが、性格がキツ過ぎる。
俺の母や姉妹を思い出せば……おおっ!震えしか出てこないぞ!
それよりは白皙緑眼の美貌揃いと名高い涼の美姫や、情に厚く蠱惑的な呉の女性の方が良いに決まっている!)
今日も今日とて、子竜は自分第一主義である。
だが、この献策が後の華帝国の再興を決定づけることになるとは子竜も夢にも思わないことであった。
華史曰く、皇太子立人は華歴二百三十三年に呉王を拝し、南海軍を創設したとある。
大陸の常套、南船北馬と呼ばれるも、華の南限にて創設された南海軍は独自の船と火器を装備し、馬も良く使い、縦横無尽、大陸を征したという。
また、南海軍の創設には軍師香絹の名と共に多くの異人の名が記されていることも、つとに有名である。
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