-第六話- 開封府の酒楼
華歴二百三十三年 初春 開封府
北京府壊滅。
その報は衝撃をもって華帝国に、帝都たる中央開封府に齎された。
この話題は開封府の市井においても、貴賤を問わずに持ちきりであった。
(して噂は本当なのであろうな?)
(何が「噂」だ。未だに真偽を知らぬとは無能な奴め!)
(何を言うか!儂は何事も慎重には慎重を重ねよと言うておるのだ!)
開封府は西の市にほど近い、ここ水蓮酒楼でも酔客のほとんどが北京府の話題で持ちきりである。
だが、何事にも例外はある。
ぐいっ。
ぐびっ、ぐびっ。
「おー、おー、物騒なことだな?子竜兄者よ。異国人の俺には今一つぴんと来ないんだが、北京府と言えば大都の一つなんだろ?人口も百万を数えるというじゃねーか?そんな大都市の住民を皆殺し、全ての女子供は奴隷として持ち去る……物理的に可能なのかい?そんな極悪の所業が?」
「可能か不可能かで問われれば、「可能だ」と答えるしかないな。単に殺すだけなら生き埋めでも良いし、高所から飛び降りなんかをさせれば労せずに済む話だ。連れ去りも、道中で一人たりとも病人・怪我人・死人を出してはいけないという条件付きならば不可能に近いだろうが……」
「歩けなくなった者を端から見捨てて行けば可能……ってわけかい?っかぁー、どうにも怖いね大陸のお人ってのは?俺の故郷も戦乱で大概だとは思ったが、大陸のお人とは、なんだ?こー、発想の根本が違う」
ぐいっ。
ぐびぐびっ。
そういって子竜と同席している青年も杯を呷る。
話の向きから、どうやら彼は華の人間では無いのであろうが、髪の色も目の色も黒、華帝国の人間と身体的な特徴はそっくりだ。
強いて違うところを挙げるとするのならば、微妙に肌の色が白いことと目鼻立ちの凹凸がくっきりとしているところぐらいであろうか。
年のころも子竜と同じぐらいと見受けられる。
「そんなことを俺に言われても困る。……だが、そんな血なまぐさいことはどうでも良い!それよりもだ……おい、お前、抜け駆けしたそうじゃないか!」
北京府百万の虐殺等どうでも良いと言い切り、目の前の青年の胸倉を掴みつつ、子竜はそう言って凄む。
「抜け駆けとは?」
青年は癖のある自分の前髪を掻き上げながら、余裕たっぷりにそう答える。
子竜は身の丈六尺を数える長身であり、多少は、士大夫の心得程度にではあるが、武を嗜んでいる男だ。
そんな子竜の凄みにも、青年は少しも怯んだところを見せていない。
実際に、青年は全く怯んでなどいなかった。
これが酒の席の出来事であるというのが第一ではあるが、果たしてこれが素面どうしの剣呑な状況であったとしても、青年は少しも動揺するところが無かったであろう。
彼は所謂「冒険者」と呼ばれる生業のもので、荒事の玄人である。
多少、武技を磨いた程度の男子にどうこうされるわけも無かった。
「しらばっくれるな!常連の玄さんから聞いたぞ?お前、この間一緒だったそうじゃないか?!」
「うん?誰と何処で?」
「……翠蓮娘々と……そのいかがわしい界隈でだ!」
「いかがわしい界隈と言われてもなー?」
「……
「はっはっは!話す、話すからその手を緩めろ、兄者」
……ぱすっ。
子竜は太郎にそう言われて、渋々ながらも手を放した。
「まぁ、なんだ?翠蓮娘々は北京府の出身らしくてな?家を出た身ではあるが、どうにも親族の様子が気になって心細くしていたわけだ。そこで、まぁ、心優しい太郎様は「子供たちの土産でも買って今日は帰りなさい。心細いならそこまで付き合うから」と言って二人きりで店を出ることになったというわけだ。……で、後は健全な男女であるわけだからな。食事をしたり、買い物をしたりの後は、宿で二人っきりの休憩をしてから、翌朝彼女の家までお見送りをして来たってわけだ」
「な、き、貴様!」
「怒るな、怒るな。俺は単に一人の人妻の気持ちを静めた一杯の清涼茶に過ぎんさ」
「そこじゃない!……翠蓮娘々は……子がいたのか?夫もだと??」
「え?そこ??!!」
子竜はさっきまでの怒りはどこへやら、本気で衝撃を受け、顔を卓に突っ伏してしまった。
「お、俺……最近は本の購入も控えて貯金して、頑張って……えっぐ、えっぐ……頑張って娘々を妻に迎えようとしてたのに~!!!」
「……うわっ。兄者、泣くなよ。……つうか、何でこんな安酒楼の女給のお姉さん相手に、本気の嫁探ししちゃってるの?え?純情ちゃんなの?」
「う、うわ~っ!もう、この世は終わりだ~っ!」
本気で泣き出す香子竜二十三歳。
こうなると、白皙の美男子も形無しである。
ぽかんっ!
「あ、いたっ!」
「こんな安酒楼で悪かったわね!幾ら本当のことでも、その安酒楼の常連にだけは言われたくないわよ!」
歴戦の冒険者といえど、酒も入っていると、殺気の感じない攻撃には弱くなるのであろうか、子竜と太郎がいる個室の戸を開けた女主人の一撃を太郎は躱すことが出来なかった。
「いってえなぁ……もう。……で、なんだい?美の化身の水蓮姉さん自らお客の部屋に来るとは珍しいね?俺達はツケも期日内にきちんと支払い続ける、この店一番の上客だと自負してるんだが?」
「その点には感謝しているさ。例え、店の女の子を次から次に食っちまうような極悪人だとしてもだ!って、それは置いといてだよ。ねぇ、
そういって、女主人は甘えた声を出しつつも、子竜の頬をつねり上げた。
見事な飴と鞭である。
「いたたた……って、水蓮?おー!すいりぇん姉さん!俺を慰めに来てくれたのかい?嬉しいよー!もう、俺と夫婦になろうよー!」
「あー、はいはい。うちの穀潰しの旦那がくたばったら、次に私の旦那になる予定の千人、その後継候補の一人に数えといてやるよ……って、こりゃ、駄目だね。完全に泥酔じゃないか……なぁ、太郎の旦那ぁー、頼むよー?これじゃ、商売あがったりだよぉ?」
「えーい!急に俺相手にもシナを作るな!なんで俺がそんな面倒な……」
面倒事は御免だと腰を浮かせ始めた太郎に、見え見えの媚びを売る水蓮。
「この面倒を見てくれたら、今回の翠蓮のことには目を瞑る。そして、今度新しく入ってきた綺麗所に関しても優先的にあんたの席につける!」
「良し!任せろ!娘々!俺にとってあんたは異国の姉さんみたいなもんだ!うん!姉上には逆らえぬな!」
流石はこの大都市で長年、安酒楼と客に揶揄されるとはいえ、西市脇の目抜き通りに面した店を経営してきた女傑である。
客のあしらいと男の操縦は天下一品であった。
太郎は泥酔している子竜を個室に置いて、自分一人、愛用の刀を抱え一階の正面玄関へと降りて行く。
「済まないが、あなたが子竜先生をお呼びのお方か?」
太郎は貴人相手の対外用の笑顔を装備しつつ、謙り過ぎない程度の礼を持って、玄関前に陣取る一団の先頭に立つ女性に話しかけた。
「……はい。子竜先生は中ですか?我が主人が緊急にと呼んでおりますので、こちらにお連れ頂けますか?」
一団を率いる女性、紗玉はそう言って、控えめながらも太郎にお願いという形の命令を下した。
華帝国には、揺るがしようのない身分の壁がある。
農民は都市民には逆らえないし、都市民の間でも財力に基づいて明確な上下関係がある。
ましてや、貴族階級、王族、皇族などはそれ以上のものなのである。
この場でも、貴族階級の紗玉が「お願い」を一度口にすれば、その「お願い」を跳ね除けられる庶民など、この帝国のどこにも存在はしない。
そう、帝国には存在しないのだが、だが、それは華帝国に生まれ育った人間の中の話である。
今回の紗玉の相手、太郎は容姿こそ華帝国の人間と変わりはないが、出自は別である。
彼は、大陸より東に二日ほど早船で飛ばしたところにある島国、倭国出身の冒険者である。
「倭国」と「冒険者」。紗玉の命令を聞く理由がない点がここに二つある。
「倭国」が紗玉の命令を聞かない理由は、先ほどの出身地の違いからくる身分意識の他にもあるが、それはここで語ることではないであろう。
問題はもう一つの「冒険者」という物である。
この冒険者であるが、この身分、実は華王朝の建国期より明文化されたれっきとした職業・制度なのである。
華帝国を打ち立てた太祖は大黄河を流通路と為すことで大発展を遂げた人物だ。
つまり、太祖は商業振興策に非常に熱心だったのである。
比して、華の前王朝の黄は、華とは違い農業に重きを置いた国であった。
故に、商業政策は非常に閉鎖的で、特に国の外からの商人使節は例外なく締め出す方針の王朝であった。
そのような時世の中、とある商人の使節団が大陸の西より船団を率いてやってきた。
大陸の東で革命が興り、王朝が交代したとの噂を駆けつけてやってきた者達であった。
彼らは、隔てられた大陸の東と西の人々が共に発展していくためには交易が不可欠と太祖に説いた。
その説に大いに感銘を受けた太祖は、彼らの帝国内での身分を保証し、その行動に許可を与えた。
その許可とは、彼らの組織の拠点、「組合」の設置をどの都市であろうと、一つの例外もなく許可をしたのである。
この組合、彼ら西の人々の言葉では「ギルド」といい、広義で「ある職業に従事する者達の集まり」を意味する。
この説明を聞いて許可を出した太祖とその周辺の人々だが、彼らはその「組合」とは商会のようなもののことだと理解していた。
それはなによりも、交易を求める人間が商人でないかもしれない、などという発想が彼らには無かったのだから、当然のことだ。
ところがである。
東にやってきた西の人間たちは商人では無かった。
もちろん、売買を為して富を得ることも夢見ていたが、彼らの本質はより単純で純粋なものだった。
つまり「どんなことをしても成り上がる」という野心を秘めた者達だったのだ。
彼らは、西の国元では「はみ出し者」とか「はぐれ者」、「暴れ者」などと呼ばれていたが、彼ら自身は自分たちのことをこう呼んでいた「冒険者」と。自ら富と名誉のために危険を冒す者だと……。
華帝国の人間は、皇帝自らが居住許可、活動許可を与えた人間がそのような危険な人物だとは誰も思いつかなかった。全くの誤算であった。
だが、誤算は冒険者の側にもあった。
それは、東の帝国が高度な文明を築いており、自分たちが百や千、いや、万の軍勢を連れてきても征服しえない物だとは知らなかったのである。
彼らは欲にまみれていた。だが、馬鹿では無かった。
富と名誉のためにはどんなことでもやってやろうという決心は持っていたが、死ぬ気はさらさらなかった。
「死人に名誉無し」それが、彼らの信念であったからだ。
そこで冒険者たちは一つの方針を打ち立てる。
「帝国の人間がやらないようなことを我らが率先して行い、高額の料金を請求してやろう。請求を踏み倒すような奴は殺してしまえば良い」
こんな過激な発想から始まった冒険者組合。
これが冒険者組合が成立して以降、二百年以上経った今では帝国の至る所にいる冒険者達の由来である。
閑話休題、話を戻そう。
「お美しいお嬢さん。そうは申されましても、今宵の子竜先生は大分酒を召されていて、今は熟睡されている。貴方の主人がどのようなお方は存じ上げぬが、そのような状態の先生をお召しではあるまい?今日のことはわたしの方から先生に伝え、あすの朝にはそちらに向かわせるので、どうか今晩はお引き取り願えませんかな?」
貴人の主人が誰だか知らぬ、それは真っ赤な嘘である。
太郎はこの娘の言う主人が帝国の皇太子であり、その人物が子竜の雇用主だと十分に知っていた。
(兄者の職業が皇太子の教師だというのは、兄者と親しい人間なら皆が知っていることだからな。
……しっかし、流石は皇太子府の女官ということなんだろうか?
えらい、迫力と美貌を持ったお嬢さんだねぇ……)
礼節に適った対応をしながらも、心の中では結構下種な感想を抱いている太郎である。
だが、これも正しい冒険者の姿なのであろう。
「……えっ?美しい……?」
(えっ?そこ?)
思いもかけない反応を女官にされてしまって唖然とする太郎。
自身が上級貴族の出身で、勤め先は父親と同じ皇太子府。
箱入り娘もここに極まれりともいう紗玉にとって、太郎の礼節を守りながらも砕けた言い回しでの褒め言葉は、どうにも効いてしまったようだ。
「……え、あの、その……貴方様のお名前は……?」
「これは失礼を致しました。可憐なお嬢さん。私は太郎と申し、倭国より渡ってきた冒険者です」
「……太郎様……姓を名乗らないのは、婿入り希望だからなのかしら?あら、やだ、どうしましょう……いや、どうもこうもないわね。ここまで熱烈に求愛されたのならば、きちんとお父様にご挨拶してもらわなければ」
「「……」」
きっと、護衛兵が無言なのは職務理由だけではあるまい……。
太郎と護衛兵に見守られながらも、紗玉の妄想は続く。
「……そうね子供は三人は欲しいかしら、父の後を継ぐために一人は男子が欲しいけれど、やっぱり手元に居てくれる娘の方が嬉しいわよね……そうよね……」
「あ、あの……佳麗なお嬢さん?その……子竜先生のことはよろしいのでしょうか?」
「はっ!あ、そうでした!そ、そうですね!太郎様がその様におっしゃられるのならば、明日の朝に出仕するよう先生にはお伝えくださいますか?」
「は、はぁ。ではそのように……」
「あ!そ、そうです!その時はもちろん太郎様もご一緒してください!先生一人だけでは来ないかも知れませぬし!」
「いや……流石にそれは無いかと……」
「お黙りなさい!私は太郎様とお話ししているのです!」
あまりな話の展開に、これ以上黙っていられない、とばかりに口を挟んだ護衛兵の隊長らしき人物の指摘を食い気味に制す紗玉娘々。
「で、では。鮮麗なるお嬢さんの仰られる通りにさせていただきます」
「え、ええ!お待ちしておりますわ!太郎様!」
((お前が待つのは子竜先生だろ!!))
この場に居並ぶ皆の心は一つになった。
異邦人の太郎。
彼は単に己の姉妹から、「女性を呼ぶときには常に褒め言葉を付けろ」と言われた教訓を実践しただけだとは誰も知らない。
しかも、その褒め言葉もただの言葉の勉強のついでだということも知られていない。
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