-第四話- 秋の夜長に
華歴二百三十二年 秋 中央開封府
ちりんちりんちりんっ。
りーりーりーりーんっ。
暑さを残しつつも、秋のさわやかさをも感じる夜に虫の音と硝子風鈴の音色が響き渡る。
残暑の気配を残す開封府は王城脇にある皇太子府。
皇太子府とは、立太子された者が、その政務を司るために掲げることが許される組織、屋敷である。
華帝国の第四皇子である立人は、先年に崩御した皇后唯一の子である。彼は八歳の新春に立太子され、内城内の一角に府を構えることが許された。
そんな皇太子府。
いつもなら寝静まっているであろう夜更けながら、今晩、立人の書斎では明かりが煌々と灯され、立人と子竜の主従は真剣な面持ちで話をしていた。
(こんな夜更けに、ここまで明かりを灯すことが許されているのは、よっぽどの金持ちか、綺麗所しか揃えていない酒楼ぐらいなもんだろうさ)
煌々と明かりを灯してはいない等級の酒楼に入り浸っている子竜にとっては、あまり慣れていないこの書斎の夜の明るさである。
(さてさて、殿下は外周城壁で耶蘇将軍の旧配下からの直言を受けて、なにやら手下の強化に役立てたいとお考えのようだが……ちと、危険な一手のようにも思えるがねぇ。
俺もいい加減、殿下が立場に見合った野心を抱いておられるお方だとは身に染みたもんだが……)
「子竜先生。このような夜更けに寝室よりお呼び出ししてしまい、申し訳ありません」
立人は両手を眼前で合わせ、年長者への礼を施す。
礼を施す方はえらく真剣だが、施される方は表情に出している真剣さの僅か万分の一も真剣な心情にはない。
「殿下、どうぞお気になさらず。私は有難くも、殿下に「師」と呼ばれ、禄を頂いている身なのですからね。どうぞ、気兼ねなくお呼び出し下され」
(まぁ、「禄」と言っても日雇いみたいな形で、授業の度に娘々から給金が手渡しされるという悲しい身分ではあるが)
本来の意味の「禄」というのは、上級家臣に渡される土地や一定期間毎に支払われる俸給を意味する。
「禄持ち」とはそういった、身分の高い者の上級家臣を意味し、広大な華帝国でも一握りの者にしか使われない言葉である。
「そう言ってもらえると嬉しい。……では、早速だが、先生の知恵を私に貸して欲しい。……鋭い先生のことだ。既にお気づきだとは思いますが、私は今日の兵達から願われた耶蘇将軍の減刑、これを成し遂げ、なんとか将軍を自分の旗下に加えたいと思う」
立人は真っすぐに子竜を見つめ、はっきりと己の希望を告げる。
(なるほど、意思は固いか……けど、将軍は上層部の都合が良い形で責任を取らされるために開封府に連れてこられたお人だからなぁ。
まぁ、何個かの策を思いつくところではあるが……上流階級の方々の思考回路ってものは、得てして非常に単純明快だからな。
生命の危険や財産喪失の危険なんかが、日常的に降りかかる我ら庶民とは違って、楽しい、楽しい権力闘争の果てでしかそういった悲劇が存在しないようなお人らだから)
「殿下の御心、この子竜、承知致しました。……されど、策を練るに辺りいくつか確認したいことが有りますれば……」
「うむ。何なりと訪ねてくれ」
「では、早速……殿下は耶蘇将軍をどのような立場で迎えたいのでしょうか?護衛として、将軍として、幕僚として、参謀として、領地経営の為?」
「そうだな、希望としては私が兵を動員するような事態になった時には、その全軍を指揮してもらいたいと考えている!」
子竜の問いに対して胸を張って応える立人。
「耶蘇将軍は遼人。殿下の周りは紗様を初め、魯出身の方々が多いようですが……遼と魯、共に華の一国となって久しいですが、元は不倶戴天の間柄。そこのところは?」
遼も魯も今では華王朝の血脈が王に封じられている国ではあるが、元は渤海を挟んで、攻めつ攻められつつを繰り返してきた間柄。両国の民衆の間には根深い憎悪の歴史がある。
そして、耶蘇武律将軍はその名が示す通りに、遼の旧王の一族に連なる人物であり、魯人からの受けは当然の如くよろしくない。
一方、立人の母は先々帝の曾孫にあたり、当時の第五皇子であった魯王の血脈であるため、この皇太子府に集まる者達の多くは魯人である。
そのような間柄を理解していても、幕下に迎えたいと考えるのは、並々ならぬ決意と言わざるを得ない。
(うすうすわかっちゃいたが……殿下はいずれ自分が大軍を興す必要性に迫られるとお考えのようだ。
殿下は皇太子とはいえ齢十二、自分から兵を興そうと決心しなければ、決してその役目が回ってくることはないんだがなぁ。
上から順番に、
考えたくない展開だと、その上を取っ払うための挙兵とかもあるのがなぁ……いや、面倒、面倒)
「なるほど、承知致しました。そうなりますと……将軍にはすべての罪を赦免していただき、大将軍の位はそのままに、殿下の配下となってもらわねばならない、というわけですな」
「……そうなるな。皇太子の虎府を携えるには大将軍の地位が不可欠であろう」
「そういうことならば、一番簡単で確実な策がございます」
「おお!それは!」
耶蘇武律を旗下に加える。これは困難なことだと、不可能であるとの答えさえ覚悟していた立人は、こともなげに言う子竜の言葉に大層喜んだ。
深く腰を下ろしていた椅子から身を乗り出して、その策の詳細を問う。
「大将軍を罰することが出来るのは、天上にただお一人、皇帝陛下のみではありますが、裁を下すのは皇帝陛下ではありません。罪状を質す
「む?兵部は三珠皇子の息が濃く掛かっているところか……」
「そうではありません、殿下」
子竜は優しく首を横に振り、立人の勘違いを正す。
「三珠皇子は確かに兵部に影響力を強くお持ちだ。もしかしたら、皇子の中で一番強く兵部を動かせるかも知れません。ですが、この場合は兵部の頭、兵部尚書を動かせる人物という意味です」
「兵部尚書の上……
返答の代わりに深く一礼をする子竜。
「確かに宰相は欲深く、交渉事を好む質だな。十分に話し合いの余地がある……しかも奴の孫の一珠皇子は最も位が低く、次代での地位を求める心は強かろうな!」
「いえいえ、殿下。位だけはいけません」
「む?なぜだ?位などは結局はただの形式に過ぎぬ。なんの力も生み出さぬであろう?」
「はい、その通り「位」だけでは何も生み出しはしませぬ」
「ならば!」
なおも言い募ろうとする立人を軽く制し、子竜が話を続ける。
「生み出さぬのは「位だけならば」なのです。……もう一度、お考え下さい。その「位」を手にするのはどなたなのですか?「宰相」なのではないでしょうか?」
「はっ!……これは……私が浅慮だった……」
子竜の誘導により、答えに至った立人は深くうなだれる。
「左様です。華で一番の実務権限を持つお方に「位」を与えてはいけません。今でこそ宰相閣下の孫は一珠皇子であるために、次代での地位は決して安泰とはいえぬものなのです。ですが、これが二珠、三珠と上がって行った場合、最悪は至尊の地位に近づくことすら……」
(っと!
しまった!
これは失言だ!)
己の失言に気付いた子竜は椅子から飛び起き、叩頭して失言を詫びる。
「申し訳ありません!皇太子殿下!これは私めが考えの至らぬ言葉を口に出してしまいました!どうか、どうかお許しを!」
悲壮感漂う口調と内容、そして繰り返される叩頭。
だが、決して己の額を割らない程度の力でしか床に額を打ち付けない子竜でもあった。
「その程度……気にするな、師よ。私は貴方のように実直な言を発する方にこそ傍にいてもらいたいと思い、こうしてこの場に居てもらっているのだ。今後もその程度のことでいちいちの謝罪は必要ない」
「殿下の御厚恩に深く感謝いたします!」
(あぶない、あぶない。
俺も殿下の傍に長く居過ぎて油断してしまったのかも知れんな。
秋の空よりも移ろい易いのが貴人の心という物。
今日は許されても明日は駄目かも知れんからな、気を引き締めて行かねば、職を失うだけでなく、命をも失う羽目に為りかねんぞ!)
どこまで行っても自分第一主義の香子竜である。
「で、では話を戻しまして……」
自分の発言が許されたことを理解した子竜は急いで椅子に座り直した。
床に座したままでは、嫌でも先の失言内容を立人に思い返させてしまう。
過去のことは過去のことにして、大黄河の流れにでも流してしまうのが吉である。
「さて……交渉の基本とは、お互いに欲することに順位付けを行い、それぞれが釣り合うところ、妥協できると感じられる線を導き出すこととなります。まずもって、殿下の欲するところは先に伺いましたので、これは明瞭です。第一に耶蘇将軍の命を取られぬ事、第二に皇太子府の旗下に加えること、第三に大将軍の位をそのままとする事。このようになりましょう」
「うむ、まさにその通りだな。では、今度は相手方となるか」
「はい。……宰相方が欲するのは、主に二点へと絞れます」
「二点……一つは先ほども会話したように一珠皇子の「位」だな」
「左様です、殿下」
(まぁ……宰相閣下としては孫の位は二の次というか、己の権力を強めるための物であって、本来であれば自分こそが至尊の地位を夢見てるようにも感じるがね)
子竜は頭の中では非常に物騒な考えに至っているが、表立ってはその考えを示さず、ただただ一礼を以て回答とした。
「しかし、これは先ほども申した通り、決して渡してはいけない物で御座います。……ですので、宰相閣下に渡すのは、彼らが欲する二つある物のうち、もう一つの方となります」
「もう一つとは?」
「それは兵権でございます」
「兵権だと!!そのようなものを私は持っていないぞ!華の兵権は須らく皇帝陛下に帰すものだ!」
まったくもって思いがけない言葉だったのか、立人は椅子から立ち上がり、深夜の会話とも思えぬ声量で声を上げた。
だだっだっだ!
「で、殿下!如何なされましたか!」
立人の声を聞きつけ、隣室で待機していた武装女官がやって来る。
「い、いや、何でもない!少々、先生のお話しが刺激的であったので声が高くなってしまっただけだ。大事ない!その方等は下がっておれ!」
「は……はぁ。承知致しました!」
昨年の子竜に対する対応で叱責を受け、傍周りの女中から武装女官へと降格された紗玉が不承不承ながら頭を下げて下がって行く。
もちろん、去り際に子竜を睨みつけることは忘れない。
(うひぃ!
紗玉娘々も怖いお人だな。
俺には一かけらも悪いところはないというのに、逆恨みだけで、あのように人を殺せそうな視線を出せるとはびっくりというものだ)
「これは済まなかった、子竜先生。どうか話の続きを聞かせてください」
「は、はい……」
一つ大きくかぶりを振って、身震いを止める子竜。
「華の制度における宰相の地位は、三省六部を統括する立場でこそありますが、兵権に関しては別と定められております。兵権の頂きは皇帝陛下。次いで陛下からの虎符を授けられた大将軍。その下に各地の郡王となります……」
「そうだ。そこに皇太子の名前はないぞ」
「……そうですな、実際には皇帝陛下が実務を行なえない際には、代理として皇太子が軍権を発揮できることになっておりますが、華帝国二百三十二年の歴史の中で、そのようなことは一度も御座いません」
「で、あれば!」
立人は先ほどよりは声を抑えたが、それでも高い声を出す。
「いえ、皇太子殿下には皇太子としての権限とは別に、もう一つの兵権をお持ちのはずです」
「……」
「殿下の御母君、亡き皇后娘々が実家から受け継いだ魯の虎符が有るはずです」
「……」
(皇太子殿下は決して表になっていない、秘中の秘の話だとでも思っているのだろうが、こんなものは暗黙のことのうちだ。
皇后娘々の父君、魯王殿下の血族は悉く他界してしまっている。
その子孫の内、最後に残ったのが皇后娘々……つまり魯王の血族唯一の生き残りが皇太子殿下となる。
そして、魯王が亡くなった後、新たな魯王は立てられていない。
立てられていないということは、昔の印がそのままに有効だということだ。
極めつけに、印という物は、それこそ九族に類が及ぶような大罪を犯した者に対してでもない限り、皇帝陛下といえど簡単に奪い取ることは決して出来ない。
つまりは今でも魯の印は魯王の末裔の手元にあるということだ)
「魯の虎符の返却を条件に耶蘇将軍の召し抱えを交渉なされては如何でしょうか?私が思いますに、宰相閣下は一にも二にもなく飛びつくかと……」
「……しかし、これは私にとっての切り札だ。……皇太子の兵権を行使することが事実上不可能なのだから、……だからこそ、私が持つ兵権は唯一この魯の虎符の上にこそあるのだ……」
「……決して使えぬ、行使することの出来ぬ兵権がそれほどまでに大事ですか?東方不敗とまで謳われた将軍の存在以上にですか?」
「……」
(ちと、意地が悪い言い方だったかな?
……うん。武器をちらつかせた紗玉娘々への当てつけではないぞ!)
要らぬところで、要らぬ復讐心を出す子竜である。
「……魯王の虎符は決して使えぬと、先生は仰るか」
「はい……残念ながら。……確かに、この世に絶対は有りませぬ。有りは致しませぬが、魯の虎符は使えませぬ。正直に申しまして、魯の虎符より、皇太子としての兵権の方が数万倍も使えます」
「……皇太子の兵権の方が?」
「はい。皇太子というのはそれほどまでに強い権限を持つのです。……勿論、今の状況ではなんの意味をも持たないものではありますが、一度大事が起きたならば、皇太子の持つ意味はとても重いものとなるのです」
「……大事か……」
「はい。大事です。……それに引き換え、魯の虎符は使えませぬ。魯は開封府に近すぎるのです。魯で兵を集めることが可能な状況というのは、開封府が健在であることと同義なのですから」
先ほどの失言を思い出し、決定的なところは濁す子竜。
「なるほどな……私は非常時の時にこそ、魯の虎符は役に立つと考えてきたが……そうか、そもそも魯で徴兵が行なえるのならば、開封府は健在か……」
「……左様です、殿下」
言いたいことはそこまで、とばかりに一礼をして目を閉じる子竜。
「……よし、私も考えを改めて腹を括ろう。これよりは使えぬ兵権を捨て、皇太子の地位を守る戦いに終始するとしよう。そのための力として耶蘇将軍を旗下に加える。うむ!我が道は定まったな!」
立人は己の心を定めたのか、決意を持った眼差しを以て虚空を睨んだ。
(やれやれ、これで何とか厄介事を遠ざけることは出来たかな?
魯の兵権など、今の状況では百害あって一利なし。
しかも、早々に役立たずになりそうな権限だからな。
役立たずになる寸前の状況で、万が一にでも魯勢と共に戦場なんかに呼ばれたらかなわんからな。
ごみは捨てられるときに捨てるのが吉、更にそれを売りつけることが出来るのならば、とっとと売りつけるのが最良というものだ)
結局のところ、子竜が立人に魯の虎符を手放すよう勧めたのは、自分の命惜しさ故であった。
さて、そんな立人と子竜の話し合いが行われた夜から季節が変わり、華歴二百三十二年の冬になると、それまでは四珠皇子の腹心とまで思われていた北辺将軍が、幕僚を宰相派の人間へと総入れ替えを行い、魯を初めとした黄河流域の兵を以て北京府への援軍を率いて出征することとなった。
華帝国歴二百三十二年はまだ明けない。
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