月の夜の海で

 波の音が聞こえてきます。


 とても落ちついた気もちになります。なにしろ、波の音しか聞こえてこないのですから。むかむかしたり、さみしくなったりする音は、ひとつも聞こえてきません。


 でも、ここはどこなのでしょう。


 きっと海です。それに、夜の海でしょう。なんたって、むかむかしたり、さみしくなったりする音は、まったく聞こえてこなくて、こころが落ちつく、波の音だけがするのですから。


 ゆりかごに乗っているかのように、体がゆすぶられているのは、なぜでしょう。もしかしたら、波のうえにいるのではないでしょうか。


 目をあけてみると、月のひかりがとびこんできました。起きあがって、きょろきょろと、あたりを見まわしてみると、夜の海だということがわかります。でも、砂浜が見えません。沖のほうにいるようです。


 コウタは不思議と、こわくもなんともありませんでした。


 月のひかりは、くらい海を、きらめかせていました。まるで、ランプがしずんでいて、あちこちで光っているかのようです。それを見ていると、また、眠たくなってきました。とても落ちつくのです。


 前のほうから、「カラン」という音がきこえてきました。


 波の音しか聞こえていなかっただけに、コウタは、びっくりしました。


 すると、波がもりあがって、コウタの目の前に、缶がころころと転がってきました。「カラン」というのは、缶がたおれた音だったようです。


 月のひかりに当ててみると、それはビールの缶なのだとわかりました。鼻をくんくんならすと、アルコールのにおいがします。口のなかに、いやな味が広がるような気がしました。


 ビールの缶は、月のひかりをうけて、よく光っています。こんなに月がきれいであかるい日は、なかなかありません。ひょっとしたら、あれは、月ではないのかもしれません。


 いろいろな角度からビールの缶を見ていると、ふと、そこにひとの顔がうつりました。コウタの心臓は「きゅっ」となりました。でもそれは、コウタの顔のようでした。


 いや、ちがいます。コウタにそっくりな、コウタの父の顔です。やさしい表情をして、目をつむっていました。


 ぞっとして、急いで缶の角度をかえました。すると、コウタの顔がうつりました。今度こそ、まちがいなく、コウタの顔でした。


 あれからというもの、こわいもの見たさに、ビールの缶の角度を、なんどもなんども変えてみましたが、もう、父の顔は見えませんでした。


 あきらめて、コウタは、ビールの缶を置いてしまいました。するとまた、だんだんと眠たくなってきました。


 夜の海に、ゆりかごのようにゆれるボート。そのうえにいるのは、うとうとしているコウタ。


 波の音だけが聞こえてきます。


 とても落ちついた気もちになる、波の音だけが聞こえてきます。むかむかしたり、さみしくなったりする音は、ひとつも聞こえてきません。

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