夏休みになる、すこしまえ
オレンジジュースを持って、階段を上がっていると、お姉ちゃんが泣いている声が聞こえてきた。
気のせいだと思った。お姉ちゃんは、むかしからわたしのヒーローで、泣いているわたしが泣きやむまでそばにいてくれた。背中をさすりながら優しい言葉をかけてくれた。泣くとこなんてみたことがない。
おかあさんに怒られて、夕ごはんになっても自分の部屋から出られないでいると、おぼんにその日のごはんを乗せて、わたしの部屋まできてくれた。食べおわるまで、そばにいてくれた。そして、おかあさんと仲直りするまで見守ってくれた。
お姉ちゃんの部屋のドアを、こっそりと、少しだけ開けてみた。わたしの目にとびこんできたのは、勉強机の上で、うでをまくらにして、そこに顔をうずめて泣いているお姉ちゃんだった。
高校生のお姉ちゃんが泣いている。びっくりした。大人になっていくというのは、泣くことができなくなってしまうことだと思っていたから。目のおくから、涙をながすための湖がなくなってしまうのだと、決めこんでいたから。
いったい、だれがお姉ちゃんを泣かせたのだろう。気になったけど、泣いているお姉ちゃんの服をひっぱって、それを聞くわけにはいかないようなきがした。
お姉ちゃんに聞けないのなら、ためしにおかあさんにきいてみよう。なにか、わけを知っているかもしれない。オレンジジュースの入ったコップを、お姉ちゃんの部屋のまえに置いてしまって、わたしは、バタバタと階段をおりていった。
○ ○ ○
おばあちゃんがテレビを見ながら、うちわをパタパタとさせていた。もうすぐ、夏休みだ。夏休みは、たくさん遊ぶんだ。いまも、とても暑い日が続いていて、プールの授業がある日はうきうきする。まるで、温泉に入っているような気分になる。
剣と剣がシャキンと音をたてる。バタバタと男のひとが倒れていく。ふすまがいきおいよく開いて、そこには着物をきたおんなのひとがいて、悲鳴をあげる。なんて、ひどいことをするのだろう。
おばあちゃんは、「あだうち」という言葉を教えてくれた。大事なひとが傷つけられたから、その大事なひとを傷つけたひとに、ひどい目をあわすことを、そう言うらしい。「『ふくしゅう』というのとは、ちがうの?」と聞いてみると、「ううん……」とおばあちゃんは考えたきりで、答えをくれなかった。
となりの台所から、包丁がまな板をたたく音が聞こえてきた。そうだ。わたしは、おかあさんに用があるんだった。あだうち。わたしは、お姉ちゃんのために、あだうちというのを、することになるのかもしれない。だれにたいして? それは、おかあさんが知っていると思う。
○ ○ ○
お姉ちゃんの部屋のまえに置いたオレンジジュースは、なくなっていた。コップもない。お姉ちゃんの勉強机のはしに、静かに立っている。でも、コップはもう、オレンジ色をしていない。
わたしは「失恋」という言葉を知った。好きなひとにフラれるということは、そう名づけられているらしい。
うでをまくらにして、優しく寝息をたてているお姉ちゃん。もし夢を見ているのだとしたら、その「失恋」という悲しいできごとを、風せんにして空へはなってしまえるといいな。そして、なにかの鳥のくちばしで、割られてしまえばいい。
からになった両手をうえにあげて、うーんと背のびをしてほしい。そして、起きたらお腹がぺこぺこになっていてほしい。
○ ○ ○
自分の部屋のカーペットの上に寝ころんで、夏休みのことを考えた。ラムネを飲みたい。図書館で本を読みたい。水族館に行きたい。お姉ちゃんと、ゆうれいの番組をみたい。祭りの日に、手をつないで、わたがしを食べたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます