夢と希望の絵本
わたしの手もとに、一冊の絵本があります。いまから五十年前くらいに発売された絵本なのですが、とても人気がある絵本ですので、いまでも新品のものが本屋さんにならんでいます。
この絵本の作者は、日本のひとのようです。ですが、絵を描いたのは日本のひとではありません。こうしたことは、いまではめずらしくないことですが、なにしろ、五十年前くらいのことですから。
それはさておき、想像の物語というのは、実さいの物語がなければ、つくりだされることはありません。わたしはこれから、実さいの物語を書いていくことにしましょう。
――――――
健二は、血のながれた右足のせいで、森のなかですわりこんでしまいました。たべものは、もう持っていませんし、飲み水さえ、もうなくなりそうでした。このまま、しんでしまうのだろうと、健二は思いました。
そのとき、首すじに、冷たいなにかが当たりました。なにしろ夏のあつい日でしたから、それが銃であるのに、風邪をひいたときに氷をひたいに乗せているかのように、健二はそれを、気持ちよく感じました。
「ありがとう」と、健二はいいました。
「アリガトウ?」
「サンキュー、という意味だよ」
健二にはその銃の主がわかっていました。この戦場で自分に銃を向けてくるのは、敵の兵士だけですから。
「どうしてお礼を言うのだ?」
「おれは、もうしにたいのだ」
「そうか。なら撃ってやろう。なにか言いのこしたことはあるか?」
健二はゆっくりと口をひらいて、こう言いました。
「ポケットに、二枚の紙がはいっている。この戦争がおわったら、だれでもいいから、渡してくれないか」
「紙?」
「そうだ。そこには、ストーリーが書かれている。夢と希望が書かれている。それを、だれかに読んでほしいんだ」
敵の兵士は銃をおろして、健二にその二枚の紙を見せるように言いました。
健二は力がはいりにくくなっている手で、小さくたたまれたそれをとりだしました。
「これは、どんなストーリーなんだ?」
「夢と希望のストーリー」
もう健二には、たくさんのことを話すちからがありませんでした。
「でも、書きかけなんだ」
健二はそう言いました。それを最後の言葉にしとうと思っていました。
「そうか」
敵の兵士は、自分の水筒にはいっている水を健二の水筒にたっぷりいれました。そして健二をせおって、森のそとに連れていきました。
おんぶされている健二に、その敵の兵士は言いました。
「オレは、画家になりたかったんだ。でも、画家になるためには、もっと世界が平和でないといけなかった。オレは、筆よりもっともっと重いものを持つことができるちからがあったから、こうして戦場にいるんだ」
意識はどんどん遠のいていきましたが、ふしぎと、生きて国に帰れるような気が健二にはしていました。
「お前の名前はなんというんだ?」
「ケンジ……」
健二の声はかすれていて、すぐにそよ風にさらわれていきました。
「そうか。オレはジュビナールだ」
戦争が終わり、健二は国に帰ることができました。しかし右足のけがが治ることはありませんでした。
あの時ポケットにあった二枚の紙は、ちゃんと健二のポケットに戻っていました。
――――――
こういう実さいの物語が、あの絵本をつくったのです。
ところで、実さいの物語とは、事実ということではありません。
健二とジュビナールは、それぞれこの事件にたいして、べつべつの感じかたをしたでしょうし、わたしたちもいろいろな感想をもつことでしょう。
だからこれは、実さいのことですが、ひとつの物語なのです。
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