お兄ちゃんが帰ってきた

 お兄ちゃんが帰ってきた。二年ぶりくらいだと思う。

 ぬれた黒のくつひもをほどこうとしているお兄ちゃんの頭に、げんこつが飛んできた。あまりもの強さに、お父さんの手は赤くなってしまっていた。お兄ちゃんは、冬のつめたいげんかんに倒れてしまった。

 そのままうつむきに横たわっているお兄ちゃんに声をかけることなく、お父さんは足をどんどん鳴らして、しょうじを閉めてしまった。わたしはサンダルをはいて、お兄ちゃんにかけよった。しんでしまったのではないかと思って、ひやひやしたけれど、お兄ちゃんはしっかりと息をしていた。

「大丈夫、お兄ちゃん?」

「リサ。ただいま……」

「おかえり。ひさしぶり」

「リサはもう、中学生になったんだっけ」

 ようやく起きあがったお兄ちゃんは、ひんやりとしたところに座ったまま、わたしにそう聞いてきた。

「ううん。まだ小学五年生」

「そうか。まだなのか……かあさんは、どこにいる?」

「さっき買い物に行ったよ」

「ちらちら雪がふっているっていうのに、たいへんだな。明日には、おれのふともものあたりまで、つもるらしい」

 お兄ちゃんは、ほどけかけていた靴ひもをするっとひっぱった。

 わたしの家にお兄ちゃんがいることに、なんだか、もやもやするものがあった。ここは、お兄ちゃんの家でもあるはずなのに、まるで、お客さんのような気がしてしまう。

 げんかんの横の部屋にはいったお兄ちゃんは、仏だんに線香をあげようとしているらしかった。わたしはお兄ちゃんのあとを追っていった。すると、しょうじが勢いよくあいて、お父さんがあらわれた。

 お父さんは、お兄ちゃんの服をうしろからひっぱって、そのまま倒してしまった。服で首がしめつけられたお兄ちゃんは、はげしくせきこんだ。

「帰れ! ここはお前の家じゃない!」



 お兄ちゃんは、ゆかに頭をつけてたのみこんでまでして、大学に通わせてもらっていた。どうしても、勉強がしたかったらしい。わたしの家は、お金もちではない。大好物のケーキを食べられるのは、わたしの誕生日くらいだ。お父さんは、夜おそくまで働いて帰ってくるし、お母さんは、わたしには見えないところで、ため息をつくことがある。

 みんなに迷わくをかけてまで、大学にいれてもらったお兄ちゃんは、ある日、もう勉強はしないと言った。大学に行くことはなくなった。

 お父さんは、お兄ちゃんを、まるでどろぼうとでもいうかのように、なぐった。けった。ひきずり回した。お母さんは、子どものように泣いて、すわりこんでしまった。わたしはそれをじっと見ていた。そこから逃げることができないほど、体がこおりついてしまったのだ。

 お父さんは、「こいつはもう家族じゃない! 他人だ! どっかへ行ってしまえ!」とさけんで、お兄ちゃんのおなかをけった。お兄ちゃんは、一度もなぐりかえしたりしなかったし、だまったままで、お母さんとはちがって、泣くこともなかった。

 数日後、お兄ちゃんは家をでていった。

 げんかんでお兄ちゃんを見送ったのは、わたしと、去年しんでしまったおばあちゃんだけだった。

 わたしはいまでも覚えている。おばあちゃんは、がま口のさいふから一万円札をたくさんだして、お兄ちゃんに渡そうとした。

 でも、その何枚もの一万円札を、お兄ちゃんはうけとらなかった。お兄ちゃんは、「ぜったい、小説家になるからね」と言って、あの時とはちがって、しずかに泣いた。おばあちゃんも、めそめそと泣いた。わたしは泣かなかった。なんでふたりが泣いているのか、わからなかった。



 夜、わたしは、仏だんがある部屋から光がもれているのを見つけた。少ししょうじを開けてみると、線香のにおいが、わたしの鼻をしびれさせた。

「リサか?」

「うん……お兄ちゃん、お父さんとなかなおりできないの?」

 わたしは、お兄ちゃんがかわいそうだったから、そう聞いた。

「むりだよ。もう、むりだよ。おれはひどいことをしたんだから」

 お兄ちゃんは、わたしにだけ聞こえるような声で、そうこたえた。

「ばあちゃんにも、悪いことをした。一番さいしょに、おれの小説を読ませるよって、約束したのに」

「お兄ちゃん、小説家になる夢、あきらめないの?」

「ああ」と、お兄ちゃんは、声をふるわせた。

「夢までは、まだ、しんでいないから」

 ふとんからぬけだしてきたわたしの体は、どんどん冷えていった。明日は、お兄ちゃんのこしのところまで、雪がつもるような気がした。

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