第18話:孤独な堕落嫁

 邪魔者が消えた。

 これでゆっくりできると思っていたのだが、置き土産とでも言うべきか、それとも呪いか。

 堕落嫁が散々汚した部屋の片付けをする羽目になっちまった。


 と言えど、平日は仕事がある身だ。


 家に帰ってからは明日に備えてゆっくりしたい。


 というわけで、部屋の片付けを休日に後回しすることにしたわけだが。


「ごめんな。こんなことに付き合わせちまって」


 床のゴミを拾っている琴美のほうを見ながら、俺は呟いた。


 折角の休みだ。


 それなのに、わざわざ人様の家を片付けることをさせて大変申し訳ない。


 それにも関わらず、心優しい後輩は柔らかな笑みを浮かべて。


「困ったときはお互い様ですよ。ほら、さっさと終わらせちゃいましょう!!」


 申し訳なさそうな表情をしている俺を気遣ってくれたのだろう。


 一刻も早く掃除を終わらせて、美味いものでも食べさせてあげよう。


◇◆◇◆◇◆


「ぷはぁー。やっぱり、仕事終わりの酒は最高だなぁー」


 部屋の片付けが終了し、俺と琴美は宅飲みすることにした。

 どこかに飲みに行っても良かったのだが、家から出る気が起きなかったのだ。

 と言っても、軽く買い物だけは済ませたので、夕飯の準備は完璧だ。


「厳密には仕事ではありませんけどね」


「仕事みたいなものだろ。休日返上で部屋の片付けだぞ」


「まぁーそう言われるとそうかもしれませんけど」



 そう言いながらも、琴美はテーブルの中心に置いた鍋の蓋を開いた。

 モクモクと白い湯気が出てきたあと、ニッコリと微笑んでいた。

 お肉や野菜に火が通ったことを確認したのだろう。


「はい、先輩。いっぱい食べてくださいね」


 本日の夕食は、豚バラと白菜のミルフィーユ鍋をベースにして、冷蔵庫に入っているウインナーや鶏団子、豆腐に厚揚げなどなど、とりあえず何でも入れちゃえの精神で豪快に入れたものになった。


 味付けは寄せ鍋用の素に、めんつゆや醤油と言ったどこの家庭にでもありそうな調味料を少しだけ混ぜた。


 濃ゆい味が好きな俺のために琴美がわざわざ合わせてくれたのだ。


 だし汁だけでも飯が進むのだが、カツオと昆布の味が凝縮した具材のおかげで更に白米が食べたくなった。


「先輩まだおかわりできますけど、どうしますか??」


「食べたい気持ちは山々なんだが……胃袋がもう限界だ。ゆ、許してくれ……」


 具材を大量に入れたせいで、まだもう少し余っている。


 雑炊にでもして、明日食べればいいだろう。



 夕食を食い終わったあと、俺と琴美は食器洗いを行った。


 二人での作業。


 テキパキと熟す琴美を見ていると、堕落嫁とは大違いだと思ってしまう。


 それから俺たちはまたテーブルへと戻り、二次会を開くことにした。

 柿ピーやしっとりチョコ、ピリ辛味のイカフライなどなど。

 買ってきたお菓子を酒のつまみにし、談笑を交えるのであった。


「本当に離婚しちゃうんですか?」


 丁度、酒が回り始めた頃。


 琴美が神妙そうな声で訊ねてきた。


「あぁーもう実家に帰ったしな」


「先輩、ひとりぼっちになっちゃいますねー」

 

「そうだが……どうしてそんなニコニコなんだ?」


「今後は先輩を独り占めできると思って」


「悪いが俺は一人を楽しみたいし。自分の時間を大切にしたい派なんだよ。もう女はこりごりだ」


 正直な気持ちを吐露したところ、琴美はクスッと笑みを浮かべて。


「えー。それなら先輩の新しいお嫁さんに立候補してもいいですか?」


「女はこりごりだと言ったのが聞こえなかったのか?」


「先輩は一人を楽しみたい派かもしれないけど、わたしは二人の時間を大切にする派なので」


「本気で言ってるのか?」


 琴美はチョコを口の中に放り入れながら。

 まるでからかっているかのように。


「さぁーどうでしょうか。女心を当ててみてください」


 勿体振ったことを言われてしまった。

 だが、俺は答えない。

 ここで意識して変なことを言ってみろ。

 会社内での立ち位置が極めて面倒になるかもしれない。


「片付けを手伝ったことは本当にありがとうと思ってるよ。だが、それ以上は……」


「冗談ですよ、海斗先輩。本気にしないでください。お酒が回っただけなので」


 えへへへと声を出して笑っているのだが、本気で笑っているようには見えない。


 というか、冗談でもこんなことを言う人ではないはずだ。


 でも、それでは琴美が俺のことを好きみたいな言い方じゃないか……?


「でも……でも、ですよ。わたしが先輩を好きって気持ちは本当のことです」


◇◆◇◆◇◆


「先輩……書類ミスです」


 ここ最近ずっと本調子が出ない。

 その結果、仕事で単純なミスを繰り返している。


 原因はもう分かりきっていた。


 前回家に遊びに来た琴美が放ってきた発言もあるのだが……。


 それ以上に俺は三年前に一生幸せにすると誓った嫁を思い出してしまうのだ。



「最近社内の皆さんが先輩のことを心配してますよ」


 休憩時間。

 俺が自販機でコーヒーを購入し、社内のベンチに座っていると。

 琴美が喋りかけてきた。

 そのまま俺の隣に座って。


「やっぱり気になっちゃいますか? 奥さんのこと」


 女性という生き物は勘が鋭いのかもしれない。

 何も言ってないのに、ズバッと当てられてしまった。


「本当情けない話だと思うのだが、その通りだ。離婚離婚だと言ってたのに、このざまだよ」


 琴美なら話相手になってくれるかもしれない。

 そう思って、俺は洗いざらい話してみることにした。


 堕落嫁のことを気になってしまうことを。


「実はさ、離婚届をまだ持ってるんだ。踏ん切りが着かないんだよな」


 書類は完成し、もう手元に持っているのだ。

 然るべき場所に出せば、それだけで終わるのに。

 未練タラタラなのか、俺は一歩を踏み出せずに居るのだ。


「認めたくないけどさ……俺はまだ好きなのかもしれない」


 ローンで購入した一軒家は一人で住むには大きすぎる。

 さっさと売り払ったほうがいいのかもしれない。

 自宅から会社もそこそこ近いとは言え、賃貸に住んだほうが遥かに安いし、近くなる。


 でも、できなかった。


「もしかしたら……俺は堕落嫁が帰ってくることを望んでいるのかもしれない」


 仕事がおぼつかない。

 アイツのことばかり考えてしまう。

 自分が居なくて本当に大丈夫なのかと。

 実家に帰ってしっかりとやり直せているのかと。


「本当……俺ってバカだよな。今までこんな大切なことに気付かないなんてさ」


 三年前に誓った言葉。


 アレは未だに残っているのだ。


 心の中で。心の何処かで。


 俺はまだアイツのことを愛しているのだ。


「先輩」


 そう言うと、琴美は抱きしめてきた。

 弱みを吐き出す俺だったのだが、自然ともう何も言えなかった。


「それなら奥さんと真剣に話し合う必要がありそうですね」


「そうだな……このままじゃあダメだ。しっかりと話し合わないと」


「先輩は本当に優しい人ですね。もうショートケーキの百倍は甘いです」


 と言いながら、琴美は俺の頭をよしよしと撫でてくれた。

 自分よりも年下にされているのに、意外と悪い気はしなかった。

 どうしてこんなことをするのかと言うと、「ご褒美です」だとさ。


「何か困ったことがあれば、何でも相談してください。全て解決しますから」


◇◆◇◆◇◆


 堕落嫁の実家帰り宣言から1ヶ月が過ぎようとしていた頃、遂に変化が起きた。


 会社から帰ってきた俺がシャワーを浴び、一人寂しくコンビニ飯を食っているとだ。


 ガチャンガチャンと、玄関から音が聞こえてきた。

 音を察するに、誰かが鍵を開けたものの、チェーンがあるとは知らずに引っ張っているのだろう。


 俺以外に鍵を持っている奴と言えば……もうアイツしかいなかった。


「チェーンまで閉めて何っ? この家は全部自分のものだと言いたいわけ?」


 開いた隙間から、堕落嫁は早速罵倒してきたけど……。

 逆に懐かしく感じてしまい、あんまり頭に来なかった。


「とりあえずさっさと家の中に入れなさいよッ! わたしが帰ってきたの。感謝しなさい!」


 相変わらずの図々しい態度さえも可愛く見えるものだが、一度お灸を据えるべきだな。


「残念だけど……あのもう帰ってもらえるか? もう離婚届出してきたし」


「う……う、う……嘘だよね? 嘘だよね……?」


 堕落嫁は青ざめてしまった。信じられない様子だ。


「嘘だって言って。お願いだから……これからは真面目に頑張るから!! 取り消して」


「取り消すも何ももう役所に出してきたし。正式に認められてしまったしなー」


 全部嘘だった。

 けれど、これで堕落嫁が態度を改めてくれるのならば。


「というわけで、お前はもう帰ってくれ。実家に戻れよ」


「………………」


 堕落嫁は言葉を失ってしまう。

 全く動く気配がなく、可哀想に思えるものの、もう少しそっとしておこう。


「帰りませんッ!? 再婚してくれるまで絶対に帰らないからァ!!」


 ぐすんぐすんと涙を流しながらも、覚悟を決めたのか、堕落嫁は玄関前に座り込んでしまった。


 十分ぐらい放置してみたのだが、全然帰る気はなさそうだ。

 ていうか……このままでは夫から家を追い出された妻みたいな構図になっちまう。

 変な噂が立てられるのも怖いし、早めに手を打つ他あるまい。


「やっぱりわたしが居なくて寂しかったんだねー。海斗くんも」


「海斗くんもってことは……お前もなのか?」


 堕落嫁を家に上げると、奴は少しだけ顔を膨らませて「遅いッ!」と罵倒してきた。

 だが、久々に見た嫁が相変わらず元気そうでなりようだ。


「まぁーね。実家に帰って色んな男にナンパされたけど……全然ダメね」


「やっぱりモテる女は違うんだな」


「男のレベルが低すぎるのよ。海斗くんに比べたら全員」


「それはどうも」


「というわけで、早速婚姻届を出して再婚しましょう!」


「出す必要ないぞ」


「何それ? わたしと再婚する気がないってわけ?」


「違う。元々、俺が出してないんだって。離婚届を」


「ふぇ??」


 経緯を全部説明した。

 最初は出そうと思っていたこと。

 でも、全然踏み出すことができずに、今まで時間が経過したこと。


 そして、俺が心の底から堕落嫁を愛していることを。


「俺たち、もう一度やり直さないか?」


「奇遇ね。わたしも同じことを思ってたの」


 欺くして、俺と堕落嫁は久々にベッドの上でお互いを求め合うのであった。


◇◆◇◆◇◆


「ふーん。そうですか……奥さん帰ってきたんですか」


 琴美の様子が怪しい。

 何かトゲが含まれた言い方だ。


「でも、奥さん……どうして帰ってきたんでしょうかね」


「それはやっぱり寂しくなったんだろ」


「本当にそうだと思うんですか??」


「どんな意味だ?」


「いいえ。ただ……ちょっと怪しいなーと思いまして」


「そんなことよりも、今日も一緒に牛丼行くか?」


 誘ってみると、琴美はにこやかな笑みを浮かべて「はい」と頷いた。


◇◆◇◆◇◆


 堕落嫁が帰ってきてから三日目の夜。


 堕落嫁を喜ばせてあげようとショートケーキを買って、帰宅したわけなのだが……。


「おい……な、何だよ……こ、これは」


 玄関に知らない靴が二足あった。どちらも男物だった。


 急いでリビングへと向かうと、そこには威圧的な態度を取る二人の男。

 そして、謝罪の言葉を述べて必死に頭を下げる嫁の姿があった。


「おい……何があったんだ? 説明しろ。話はそれからだ」


 堕落嫁が多額の借金をしていた。

 借りていたのは、闇金業者らしく年利がとてつもなく高い。

 借りている額も額なので、一端のサラリーマンである俺には到底払えない。


「嘘だろ……ど、どうして……どうして……お前こんなことを先に言わないんだよッ!」


「海斗くんが悪いんだよ……海斗くんが全部悪いんだよ……海斗くんが」


「俺が悪いだと?」


「そうだよ。だって、1ヶ月もわたしをほったらかしにしたから」


「いや、お前は子供か。ていうか、無闇矢鱈にお金を借りるなッ!!」


 俺と楓の会話を聞きながらも、サングラスに黒スーツの男二人組は無表情のままだ。

 彼等が何を考えているのかは分からないものの、素手で挑んだところで勝てそうにない。

 かと言って、払えと言われても払えないし……完全に詰んでいる。


「それにしても……1ヶ月でこれだけ借金できるって、お前凄い才能だな」


「えへへー。そうかなー? 思い切りがあるのかも」


「違うよ。ただ金遣いが荒いだけだ」


 痺れを切らしたのか、男二人組が俺たちの前に突っ立ってきた。

 そのまま胸ポケットから黒光りするものを取り出してきて。


「悪いんだけど……夫婦喧嘩は終わりにしてそろそろ払ってもらえるかな?」

「そうそう。オレたちもこれが仕事でやってるんで。払ってくれないと困るんですわ」


 正論過ぎる正論を突きつけられてしまうのだが、常識をお持ちではない堕落嫁は。


「警察呼んだらどうなるかなー? ていうか、これって闇金でしょ。違法行為じゃん」


 火に油を注ぐとは正しくこのことだろう。

 もうやめろと言いたいのだが、ここで引き下がる嫁ではない。


「自宅への不法侵入。銃刀法違反。現在もお金を巻き上げようと脅迫してるし」


 一瞬の出来事で気が付かなかったのだが、堕落嫁が顔を打たれた。

 そのまま二メートル先のソファーまで吹っ飛ばされてしまった。


 大丈夫かと声を掛けたい気持ちもあるけど、自業自得としか言いようがない。


「ぶ、ぶったわね!! これで完璧な暴行罪よ。いや、もうこれはレイプよッ!」


 一度思い込んだ堕落嫁は誰にも止められない。

 次から次へと被害妄想を広げてくるのだ。


「どうせわたしが可愛いから、そのまま暴行を加えて……性的なことをしようと思ってるんで

しょ。あーもういやらしいー。あーもういやいや。こーいう男って最低だわー」


 普段は敵だが……今日に限っては味方だ。何て、心強いんだろ。


 ていうか、男二人組のほうも完全に「危ない奴だ」と顔を引き攣ってしまっている。


 だが、彼等もプロだ。このまま引き下がるはずもない。


「奥さん……アンタ、この状況がどれだけヤバイか分かってる??」


「何、わたしを脅しているわけ??」


「脅しじゃなくて事実を言ってるだけだよ。このままじゃあ、アンタ苦労するよ」


「苦労? 何言ってるわけ? わたしは一銭も払わないからッ!!」


 いや……流石に借りた分は返せよ。不法な年利は払わずにしてもだ。


「だって、お金を払えないんでしょ。それならその代償を払ってもらわないとね」


 男達が語る闇金事情は、割と悲惨なものだった。

 闇金ウシ●マくんを一通り読んでいるので、大体の流れは掴める。

 それに、彼等が言いたい「ヤバイ」の意味が分かってしまう。


「奥さん……綺麗だし。AVとかに出てみる??」


「はぁ?? 出るわけないでしょ」


「あのさー。さっきから聞いてればお金を借りた側なのに、生意気じゃないかー?」

「そうそうー。そろそろ自分の立場を理解しなよ。もうAVに出るしかないんだよ」


 優しく話を聞いてくれていたお兄さんたちの態度は豹変した。

 言葉の節々に怒りが混ざり、俺たちを脅そうとしているのが分かる。


「あと、もう一つ。旦那さん、これは奥さんだけの問題じゃないんだぜ」


「あーそういうの間に合ってます。俺、この人と離婚するんで」


 助けたい気持ちは山々だが、相手の手中で転がされるのだけは勘弁だ。


「旦那さんー。そーいう嘘はやめておいたほうがいいよ。奥さん本当に」


「あーもうコイツのこと、勝手にしちゃってください。働かないし、家事しないし、人様の大切なものを勝手に売るし。借金するし。パチンコ大好きだし……もうコイツ更生させたほうがいいと思うんで」


 相手側としては、俺から金を巻き上げようと思っていたのだろう。

 でも甘かったな。

 こう見えても……危機回避能力だけは人一倍高いのだから。


「だってよ……奥さん。あーもう旦那さんにも見捨てられちゃったね。折角、海斗くんなら全部払ってくれると言って、この家に戻ってきたというのにー。あーもう残念でしたー。もう両親にも見捨てられ、夫にも見捨てられてるじゃん」


「ん? 今、ちょっと聞き捨てられないことが耳に入ってきたのですが」


「あー実は奥さんさ、実家の両親に借金の建て替えに行ってたんだよ。その後、地元の友達とかに連絡してお金を借りるように命じてみたんだけど……残念なことに全て失敗。それで最終的に離婚宣言した旦那の元へ戻ってきたわけ」


 堕落嫁を見ると、汗をダラダラ流していた。

 俺の視線に耐えきれないのか、目線を逸らし、片手で顔を隠してしまう。


「俺が居なくて寂しかったとか言ってなかったか?」


「ふふふ……寂しかったわよ。海斗くんのお金を使えなくてねッ!!」


 そうか……そうだったのか。


 全部分かった。コイツの言いたいことが全部全部全部分かったよ。


 俺は堕落嫁を愛していたけれど。

 一方、この堕落嫁は俺のお金を愛していたのだ。

 自分が如何に楽な人生を歩めるのか。そのために俺は利用されていたのだ。


「でももう遅いよ。だってもう中出し決めちゃったし。これは絶対妊娠確実コースだと思うの。離婚が成立しても、養育費をこれから先ずっと貰うし。覚悟しててね……海斗くん。これからもずっと一緒だよ」


「子供の件はどうにかするにしても……俺はお前の借金まで面倒を見る気はないよ」


「それは無理よ。だって、海斗くんは連帯保証人なんだからッ!!」


—————————————


 次回『最終話+エピローグ』になります。

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